【失望しないで】について

「わたしが与える水」と「わたしがいのちのパン」


「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネの福音書4章13,14節

【失望しないで ー求め続けるべき神の祝福ー】の中にも記した通り、ヨハネ4:14の「わたしが与える水」は、聖霊(のバプテスマ)であると私は解釈しています。神の賜物(「内住の聖霊」と解釈)を知っている者が求め、主イエス・キリストが与えてくださるものであるゆえ、聖霊のバプテスマであるとの解釈に至っています。「「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(7:37-39)と並行していると考えられます。

それでは、「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネの福音書6:35)と主ご自身が言われている「わたしがいのちのパンです」というのは、どういうことでしょうか。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来た生けるパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(6:47-51)

ここは、五千人の給食と言われる、五つのパンと二匹の魚を五千人の人々が満腹して余るほどになさった主イエス・キリストの奇跡の後、主イエス・キリストを捜し、見つけた群衆たちに主が語られたみことばです。

ヨハネの福音書6章「いのちのパン」は、明らかにイエス・キリストご自身です。さらに、「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。...」(6:55~)とあります。そして、「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(6:63)と話されています。

ここでは、イエス・キリストを信じて救われ、イエス・キリストにある者が、イエス・キリストご自身から常に糧を頂くことが言われています。

6章ではイエス・キリストによって永遠のいのちそのものを持つことと、永遠のいのちを持っている者が常にイエス・キリストを糧とすること、4章では永遠のいのちへの水がわき出ること、つまりイエス・キリストがお与えになる聖霊のバプテスマのことが言われていると解釈できます。

いずれにしても、バプテスマのヨハネがキリストとの違いを説明したところも含め、また、「わたしは・・・です」と示しておられることも、主イエス・キリストご自身がどのようなお方か、ということを示すことが主な目的です。様々な形でイエス・キリストがどのようなお方であられるかを知らせています。イエス・キリストがどのようなお方か、一言でまとめるなら「すべてのすべてであられるお方」です。


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