聖書通読について

Q   聖書の通読をよく勧められますが、正直その意義がよくわかりません


聖書通読については、勧められることや、したことがあるかないか、何回した云々ということが、教会員同士の話題になることはしばしばありますよね。

聖書通読をし始めたことによって大きな祝福や恵みがあったとか、そのような話を見聞きすることもあります。

しかし、何のために聖書通読をするのか、何故聖書を通読することが重要なのか、正直に言って私自身もその説明をまともに聞いたことはありません。通読をすることは良いことだ、というように聞くことはよくありますが、何故なのかということの説明が何となくあったとしても、結局はただ通読のための通読となってしまうことにつながるだけで、そこに何の意味があるのかよくわかりませんでした。

それでは、何のために聖書を通読するのでしょうか。

まず第一に、聖書全体が「神のことば」ですので、全体を読む必要があるからです。

わかっているつもりでも、私たち人間は、聖書のことばの中のある部分だけを選り好みして取り出し、それだけを座右の銘のようにしてしまうものです。

自分の好きなことばだけを抜き出し、結局は自分の意見、主張に聖書のことばを合わせ、自分の意見に根拠を持たせようとしていくことは、本末転倒であるわけですが、人間は実際にそのようなことをしているのです。

聖書全体を読むとわかる通り、あるところではこのように書かれているけれども、また別の箇所では正反対のようなことが書かれている、という場合が聖書には多々あります。

その際に、自分の気に入った方の内容を採用する、というようなことをしたり、あるいは自分の考えに近い意味となるように解釈するようなことを、人間はしてしまいます。

そこで絶対に必要なことは、文脈を把握することです。そのために、聖書通読は重要です。

聖書通読は、例えば、朝に旧約聖書を創世記から順に、夜に新約をマタイの福音書から順に読んでいく必要があります。

某手引書のように、例えば " 創世記を半分ほど読んだら、Ⅰ歴代誌を途中まで読んで、また創世記に戻り、創世記が終わったらヨナ書を読んで、今度はヨシュア記を読んで、通算で聖書全体を読みました " というようなことは、すべきではありません。いえ、してはなりません。

聖書は、文脈を把握し、その文脈の中でこの一節のことばがある、というところから、ここでは何が語られているのか、その真意を受け取っていく必要があります。そうでなければ「聖書を読む」、すなわち「神のことばを聴く」ことにはなりません。

聖書が語っている真意を受け取るためには、聖書全体を通読することが欠かせません。

以上のように聖書全体を順に読んでいくことによって文脈を掴んでいかなければ、聖書が語る真意を受け取ることができないからです。

また逆に言うと、聖書が語っている真意を受け取っていないならば、聖書を通読する意義は、ほとんどありません。

暗唱聖句などもそうですが、ただ聖句を暗唱し、そのことばがどこに書かれているかを覚えたとしても、その真意がわかっていないならば、その意味はほとんどありません。ある時、ふと暗唱していたみことばのある一節が心に浮かび、それが心の慰めになることはあります。しかし、そのようなことは聖書のみことばではなくてもありえることです。

さて、ご存知のようにあのマルティン・ルターは、「信仰義認」という本来の偉大な聖書教理に目を開かれ、キリスト教史上でも目を見張る偉業のために用いられた人物ですが、その「信仰義認」と反対のことが語られているように見えるヤコブの手紙を藁の書と呼びました。

マルティン・ルターが「信仰義認」に目を開かれたローマ人への手紙は、律法の重要性についての誤った観念が拭い去れないローマのキリスト者たちに、使徒パウロがその困難を取り扱い、取り去ることに心を砕いている手紙であります。

ヤコブの手紙は、信仰について誤った観念を抱き、事は全て信仰の問題であり律法の行ないによるのではないわけだから、何をしようと行ないが問われることはない、というようなことを言っていた人々に対して、行ないの伴わない信仰は真の信仰ではない、と叱責している手紙です。

マルティン・ルターの場合、特にこの「信仰義認」という中心教理が完全に失われていたような状況に対する反動で、その誤りに陥ったことを思わせられます。私が言いたいことは、明らかに主のために大きく用いられた偉大な改革者も、そのような中で聖書解釈を誤った事実を教訓として、私たちなどはなおさら慎重に、聖書を読むそのあり方を吟味していかなければならない、ということです。

聖書は、ある誤りに対して、そのまた反対の誤りに陥りがちな私たち人間に対して、そうならないように、あるいはそうなってしまっていることに気づかせ、本来の正しい教えへと導き、完璧なバランスを与えてくださる、まさに「神のことば」です。

ですから、聖書全体の通読によって、聖書の教えのバランスを知り、バランスをもって聖書教理を理解すること、そしてバランスの取れたクリスチャン生活を送っていくことができることになります。

聖書の教えのバランスを失えば、クリスチャンとしての信仰生活も当然バランスを失ったものとなります。

バランスを失い、誤った極端に走ることによって、異端が生まれていきます。

バランスを著しく失ってしまい、誤った極端が中心的なものとなるならば、聖書の教えの中心から外れてしまうことになり、もはやキリスト教ではなくなってしまいます。


聖書は、生ける神さまご自身の生きたことばです。ただ通読することに意義があるのではありません。聖書全体を通読すること自体による達成感や満足感を得られるでしょう。そして祝されているように感じられるかもしれません。しかし、聖書を読むことが、祈りとともに生きた神さまご自身とのお交わりとなっていなければ、形だけのむなしいものにしかならず、神さまからの祝福を得ることはできません。


追記として

聖書の読み方、正しい受け取り方は、教えられなければわかりません。

そのことを教えられるのが、「講解説教」です。講解説教は、その巻の全体のテーマ、章節の区分におけるテーマを掴み、文脈に沿って一語一句の意味を説き明かし、聖書が語っていることをそのまま語る説教です。自分自身で(本来は御霊なる神さまの導きによって)テーマを決めて、ある聖書箇所からそのテーマについて語るものではありません。そのような説教(主題説教)も、内容によっては(本当に御霊なる神さまの導きによるものであるならば)当然、聖書の読み方をも学ばされるものですが、講解説教は、聖書に基づいて語る説教というよりも、聖書が語っていることそのものを語る説教ですので、最も聖書の正しい読み方を学ばされます。

「講解説教」の名で、その聖書箇所の概要から読み取れる事柄を基に、話を広げていくメッセージも多いのですが、「講解説教」は、「聖書はこう語っている」と、そのことそのものを概要ではなく詳細な内容まで語る説教であり、その箇所で語っていることを正確に説き明かし、そこで語っていることを差し引くことはせず、また語っていないことまでは語らないものです。ですから、自分の都合の良いようにではなく、ただ聖書が語っていることを正しく受け取るにはどうすればよいのかを、教えられるのです。

そこで是非お勧めしたいのは、残念なことに日本語訳の書はほとんど絶版となってしまっていますが、D.M.ロイドジョンズ博士の講解説教集です。勿論『霊的スランプ』などの主題説教もじっくり読むことをお勧めします。

聖書を読んでいく際には、その背景を知ることも必要です。

例えば、新約聖書の福音書は四つありますが、それぞれの記者はどのような人物であったか、それぞれがどのような人々を念頭に置いて記したのか、そしてイエス・キリストご自身をどのような角度から伝えているのか等々、そのようなことを知って読まなければ、それぞれの福音書全体を把握し、一つ一つのことばを正確に受け取っていくことは困難となり、ただ読んでいるだけとなってしまいます。

四福音書の簡単な背景については、作成した表がありますので、よろしければご参照ください。

その背景を知るため(また聖書の概観を見るため)には、ヘンリー・H・ハーレイ博士の『新聖書ハンドブック』を活用することをお勧めします。 

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