【失望しないで】について

「ペンテコステ」は何の日か


キリスト教の三大祭は、「クリスマス」、「イースター」、「ペンテコステ」です。

その中の「ペンテコステ」については、「聖霊のバプテスマ」の解釈に悲劇的な混乱があるために、聖書が語っていることとは全く異なる理解となってしまっています。

【失望しないで ー求め続けるべき神の祝福ー】の書にも記しましたが、ここで、もう少し丁寧に確認したいと思います。

七週の祭りはユダヤの三大祭の一つです。「あなたがたは、安息日の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主にささげなければならない。」(レビ記23章15,16節) とあります。過越の祭りの後の安息日 (土曜日) の翌日に大麦の初穂がささげられ、その日から満7週、7回目の安息日の翌日まで50日を数えます。これは大麦の収穫が終わり、小麦の収穫が始まる時でした。その祭りは、大麦の収穫への感謝と恐れを表し、喜び祝う祭りでした。ここでは「あなたがたの住まいから、奉献物としてパン―主への初穂として、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるもの―二個を持って来なければならない。」(レビ記23章17節) とあるように、パン種を入れた二つのパンが動物のいけにえといっしょにささげられたのです。

さて、新約聖書においてペンテコステ (ギリシア語で「50番目」の意) の日が、この七週の祭りと関連しています。

残念なことに、ペンテコステ論については非常に大きな混乱があります。この日は聖霊降臨の日ですが、「聖霊のバプテスマ」の教理の混乱により、この日がどのような日なのかが明確にされていません。福音派は聖霊のバプテスマ=新生としており、この日から聖霊がキリスト者の内に宿るようになったと主張しています。私自身、福音派の中にいてその教えを信じ込んできました。しかし、聖書を見れば明らかにその教えは間違ったものです。「聖霊のバプテスマ」を正しく理解するなら、ペンテコステの日が教会の誕生日と言われているのは間違いです。ヨハネの福音書20章22節で、復活の主が「聖霊を受けなさい」と息を吹きかけられた、その際に復活の主のいのちを受けた教会が存在しているのです。

それでは、ペンテコステはどのような日でしょうか。旧約聖書の七週の祭りをもう一度確認しながら見たいと思います。七週の祭りは、大麦の収穫が終わり小麦の収穫が始まる時でした。この祭りは、喜びの祭りでした。ペンテコステの日は、『ユダヤ人の王として来られたイエス・キリストが、それまで神の民であるユダヤ人がささげていた動物のいけにえでは完璧に成し遂げられることがなかった贖いを、完璧に成し遂げられたこと、神の国の勝利、神の右に上げられた勝利の王であられる主イエス・キリスト』が、その証拠として聖霊のバプテスマを注がれた日です。そして、『大いなる喜びとともに、御国の完成に向けて異邦人にも及ぶ福音宣教が始まった』 (【失望しないで ー求め続けるべき神の祝福ー】[混同しやすい事柄]より)、そのような日です。

ペンテコステの日は、いつから数えて50日だったでしょうか。主イエス・キリストの復活の日からです。主は復活から40日後に昇天されて神の右に上げられ、50日目に父なる神から受けた聖霊を注がれました。「・・・神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」(使徒の働き2章32,33節) と使徒ペテロはペンテコステの日の説教で語っています。

現在、キリスト教の三大祭は、「クリスマス」、「イースター」、「ペンテコステ」であり、クリスマスはキリストのご降誕、イースターはキリストの復活、もちろん十字架の死があっての復活を特別に覚えます。

では、ペンテコステはどうでしょうか。何を第一に覚えるのでしょうか。「神の右に上げられたキリスト」です。教会員たち皆が暗唱している使徒信条も、キリストについて復活で終わらせてはいません。神の右の座に着かれたこと、さばきをなさることまで使徒信条にあります。

主イエス・キリストは、神の右に上げられ、すべての主権がこのお方に渡されているのです。

最後に、旧約時代の七週の祭りにおいてはパン種を入れて焼かれる二つのパンがささげられたのですが、そこにはどのような意味があるのでしょうか。二つのパンは、ユダヤ人と異邦人を意味すると言われています。「パン種」は罪の象徴とされており、神にささげられるパンは通常、パン種を入れないものなのですが、なぜこの七週の祭りのみ、パン種の入ったパンがささげられたのでしょうか。それは、神の民とされていたユダヤ人も、また異邦人も、同じように生まれながらに罪人であるわけですが、唯一の神による唯一の救いの道 ーイエス・キリストー により、同じように神のものとされることを意味しているのだと思います。

神の国は、勝利の王イエス・キリストが支配される国です。ユダヤ人も異邦人も、このお方によって神の民とされ、このお方を王の王、主の主としてあがめるのです。


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