信仰義認とは

キリスト教の中心教理「信仰義認」とは、どのようなことでしょうか。

私たち人間は何から救われる必要があるのでしょうか①から再三再四確認してきている通り、神さまは、義なるお方であられ、生まれながらの私たち人間は神の律法によって罪に定められています。
そしてそのままでいるならば、私たちは罪の刑罰を受け、永遠の死へと至る以外にありません。
ですから、神さまから罪赦され、義と認められなければなりません。

義と認められるとは、義とみなされるということです。「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」(ローマ人への手紙4章5節)
罪人であるにもかかわらず、義と宣言されるのです。

それは、どういうことでしょうか。

「さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ人への手紙3章19,20節)
特に[律法の重要な働き]の中で確認しましたが、律法は罪を定義し、私たちの罪を明らかにします。
私たちは、この律法によって罪を意識させられ、律法の行ないによっては神の前に義と認められることはないことを悟らされます。神さまの前に罪を自覚させられるのです。
神さまに対する罪の自覚がなければ、私たちは救い、すなわち義と認められる必要を覚えることはありません。
私たちは、神の聖なる律法の断罪の声を聞き、自分自身ではどうすることもできないことを知らされます。

「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ人への手紙3章21~24節)

「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示され」たのです。
律法は、私たち人間に義の行ないを要求し、罪を犯せばその罪に応じて刑罰を執行します。
そのような律法とは別に、しかもその律法と預言者 (旧約聖書全体) を無にしてしまうことなく、むしろそれが確立され、「神の義」が示されたのです。
すなわち、それが、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」です。

私たちすべての人は、神さまに対して、神さまの律法に対して、罪を犯したので、本来神さまの栄光を反映する存在として造られたのですが、その栄誉は取り去られました。私たち自身の力では、決して神さまからの栄誉を受けることができず、むしろ、神さまの御怒りを招くだけです。

「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
私たちに御怒りを覚えておられる父なる神ご自身が、ご自分の御子イエス・キリストを、私たちのために、この世に人として遣わしてくださいました。
キリストの十字架と復活の意味 ]で触れたように、イエス・キリストは、律法と預言者を成就されました。
神さまの律法に完全に服従され、神さまが預言者を通して語られていたことを完全に実行され、父なる神さまに完全に従われ、人としてただ神さまのご栄光を現す生涯を歩まれました。
私たちすべての人間が決してできないことを、イエス・キリストが完璧に行なわれたのです。

義なるエス・キリストは、私たちが受けなけれならない罪の刑罰を身代わりに受けてくださり、死んで、葬られ、三日目に復活されました。
イエス・キリストのみわざが完璧であったゆえ、父なる神は、このお方をよみがえらせられました。
イエス・キリストは、最後の敵である「死」にも勝利され、からだをもってよみがえられました。

私たちがイエス・キリストを信じる決心をするのでも、クリスチャンになる決心をするのでもありません。
私たちがイエス・キリスト信じ、受け入れるという働きをし、その報酬として神さまに義と認められるのではありません。全くそうではありません。

救いは、完全に神さまの恵みによります。私たちには何の功績もありません。
父なる神さまがひとり子であられるイエス・キリストを遣わしてくださり、救い主イエス・キリストが必要なことを全て行なってくださったのです。
聖なる神さまの光に照らされたら、本当に悲しむべき罪人でしかないこと、自分にできることは何もなく、自分には何の望みもなく、滅びるべき者でしかないと、魂が苦悶します。
功績は、主イエス・キリストにあり、ただこのお方に完全に信頼するのです。

神さまは、救い主であられる主イエス・キリストにのみ信頼する者に、キリスト義を着せてくださり、義とみなしてくださるのです。

神の義を無視してはなりません。神は義なるお方であられ、イエス・キリストにおいて神の義が現されています。

神の恵みを無視してはなりません。私たちは救われるに価しない者であり、ただ不敬虔な者でしかありません。

神ご自身が義であられることを示され、私たちの罪を赦し、義と認め、ご自身と和解させてくださる、ただご自身の恵みによる救い、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」、何と驚くばかりの御救いでしょうか。

義であられ、恵み深い神さまが備えてくださった救いの道を、決して曖昧にしてはなりません。


※ 聖書引用「聖書 新改訳第三版」(新日本聖書刊行会)より

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