みこころを知ることについて

Q  神さまのみこころを知るにはどうしたらよいのでしょうか

私も神さまのみこころを知るにはどうしたらよいのか、わからずにひたすらもがいていた時期が長くありました。

そんな時に『ジョージ・ミュラーの祈りの秘訣』(ジョージ・ミュラー著、A・E・Cブルックス編、松代幸太郎 訳、いのちのことば社) という本に出会い、何度も読みました。特にこの本の最初に記されている「神のみこころを確かめる方法」を心に刻みつけるように何度も読み、実践しようとしていました。しかし、一向に「神さまのみこころを知る」ことはできませんでした。

その理由は、まさにこの本の「神のみこころを確かめる方法」の第一番目にある「みこころを求める時、私はまず自分の心が全く意思を持たないような状態になることを求める。多くの人にとって、トラブルの十分の九はまさにここにある。主のみこころがどこにあれ、私たちの心がそれに従う備えをするなら、困難の十分の九は克服されているのである。このような状態にあるなら、主のみこころが何であるかを知る一歩手前にいるのである。」というところにあったことは、後になって痛く気づかされました。

「自分の心が全く意思を持たないような状態になる」ことは、私たちにとって非常に難しく、そのことを求めているつもりでも、実際には自分自身の願望を握りしめて離すことができず、そのような状態になることを求める心の態度になっていない場合が多いのです。

D・M・ロイドジョンズ師は『神はなぜ戦争をお許しになるのか』(D・M・ロイドジョンズ著、渡部謙一 訳、いのちのことば社) の中で、ジョージ・ミュラー師の名前を挙げながらこのように語っています。「・・・私たちは、聖書や信仰書の中で、かなえられた祈りについて読むと、往々にして、あまりにも大ざっぱな、見境のない結論を引き出してしまう。問題は、かなえられた祈りについて言える、ある一面にだけ注意を集中させ、他の面をまるで無視する点にある。他の面では、祈りがかなえられるために必ず満たさなくてはならない数々の条件が強調されているのに、見過ごしてしまうのである。私たちはジョージ・ミュラーのような人や、誰か別のキリスト者の聖徒について読む。一見すると、この聖徒たちがしなくてならなかったのは、自分の願いを神に知っていただくことだけだったように思える。その人々は祈った。何らかの願い事をした。すると、それはかなえられた。神が喜んで祈りをかなえ、答えてくださることには何の限度もないように思われた。祈りをささげると、答えがやって来た。そのため私たちは、誤った結論に飛びついてしまう。自分がしなくてはならないことも、単に祈って自分の願い事を神に知っていただくことのほか何もないのだと。そして、願った通りの答えが得られないと、思い惑い、傷つき、神を疑い出すのである。もちろん、問題の元凶は完全に、私たちがあれこれの条件を満たしていなかったという事実にある。私たちは、ミュラーが送っていた生活と自分の違いに気づいていなかった。ミュラーが、祈りと信仰というこの特別の奉仕を行なうべく神に召されていると感じていた事実や、その特別な方法で神の栄光と恵みを告げ知らせることこそ、自分の人生における最大の使命であると悟っていた事実を、私たちは完全に見落としていた。祈りへの実際の答えや、祈った通りの答えを受け取ることは、ミュラーにとって二の次であり、ミュラーの主たる関心が常に変わらず神の栄光であったことに気を留めていなかった。実のところ、私たちは、ミュラーがくぐり抜けた数々の苦闘や、ミュラーが自分に課していた厳格な規律について注目しようとさえしていなかったかもしれない。そして、ミュラーについて言えることは、その種の驚くべき祈りへの答えを受け取ってきた、他のすべての人々についても言える。私たちは、聖徒たちが受け取ってきた祝福をことごとく受けたいと思うが、その人々が聖徒たちであったことは忘れているのである。私たちは、なぜ神が、あの人物の祈りをかなえたように私の祈りをかなえてくださらないのかと問う。だが、<本当は>こう問うべきなのである。なぜ私は、あの人物が送っていたような種類の生活を送っていないのだろうかと。しかし、それに加えて、いま軽く触れたように、人は特別なとりなしの奉仕へと召されることがある。聖パウロは、聖霊によって分け与えられる「いろいろな種類の賜物」の中で、「信仰の賜物」に言及している[Ⅰコリ一二・四、九]。― 確かにそれは、祈りを通して現われる、この特別な信仰ではなかろうか。・・・これまで述べたような事がらを悟りさえするなら私たちは、残念ながら自分が、多くの願いにおいて思い上がった自己中心の罪を犯してきたことに気づくのではないかと思う。」(1.神の御前における人間)より

長い引用となりましたが、このことこそ、私たちが見落としてしまいがちなことであり、私たちが心に留めなければならないことであり、私たちが自分自身に問わなければならないことです。

私自身、ジョージ・ミュラー師がどのように祈り、どのように神さまのみこころを確信し、どのように答えられたか、ということ、そして勧告を常に覚えておくように心がけていましたが、ジョージ・ミュラー師の「主たる関心が常に変わらず神の栄光であったこと」、そうであったゆえに、神さまの栄光を現すことをこそ願い、実際に神さまの栄光を現す生活を送っていたことには気を留めていませんでした。

そこで、私自身が通らされてきたところから言えることは、まず「神さまのみこころを知ろうとしている理由は何か」を、自分自身に問う必要があるということです。

例えば、神さまのみこころを知りたい理由が、確実で安心できる生活を送っていきたい、という理由である場合があります。神さまのみこころであるならば失敗はなく、その道は保障され、困難があったとしても祈るならば答えられ、着実に進んでいくことができる、そのような人生を送っていきたいために、神さまのみこころが知りたいわけです。

また、自分の願っていることが神さまのみこころであるかどうかを知り、それが神さまのみこころであるならば、不安も心配もなく、自分の願っていることが成功することを確信して進んでいくことができるため、それがみこころなのかをはっきりと知りたいと思うことが、しばしばあるのではないでしょうか。

私たちは、具体的にどうしていったらよいのかがわからない時や、自分がしようとしていることや願っている具体的なことがある時、また何かを選択したり決断しなければならない時などに、神さまのみこころを具体的にはっきり知りたいと思います。

しかし、常に神さまのみこころを知り、従っていきたいと願うことはあまりありません。そのような願いがあるならば、神さまご自身を知り、神さまご自身のご栄光を現していくことを常に願っているはずです。生活に変化が生じる際や、先行き不安な状況が見えてきた際、また何かしら不安な思いに駆られた際や、自分の強く願うことがある際などだけではなく、常日頃から一つ一つにおいて、神さまにお従いしていくことを願い、神さまのご栄光を現していくことを願うはずです。

Ⅰテサロニケ人への手紙の中で、使徒パウロは「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」(4:3) と記しています。私たちは、聖くなることを願っているでしょうか。使徒パウロはその前後でこのように記しています。「終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授けたかを、あなたがたは知っています。神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。」(4:1~8)

言うまでもなく、私たちは当時のテサロニケ教会の人々が到達させられていたところまで、到達しているとは決して言えないでしょう。私たちは新約聖書時代の教会にしても旧約時代のユダヤ人にしても、自分たちと同等かそれ以下に見る傾向がありますが、それはあまりにも傲慢だと気づかされ、へりくだらされる必要があります。私たちの態度が、聖書よりも自分たちを上に置き、神さまよりも上に置いている以上、神さまのみことばを聴く態度とはなっておらず、神さまのみこころを知る態度とはなっていないのです。私たちは、「どのように歩んで神さまを喜ばすべきかを」学んでいるでしょうか。そのことを学ぶ態度、聴く態度があるでしょうか。神さまに喜ばれる歩みを行なった旧約時代の聖徒たちから、この新約時代の聖徒たちから、誰よりも主イエス・キリストから、学ぶことを願い、聖くなることを願っているでしょうか。

クリスチャンとされたばかりの頃からそのような願いを持っている人は、ほとんどいないでしょう。神さまご自身が私たちをお取り扱いくださり、そのような者とさせてくださいます。そうして神さまご自身がどのようなお方であられるかを知らされていき、みこころを知る者とさせられていきます。ジョージ・ミュラー師も、一飛びにあのような信仰者とされたのではありません。

ですから、神さまのみこころを知ることを願うならば、神さまご自身を知ることを願う必要があります。人についてもそうですけれども、あの人がどのようなことに喜び、どのようなことに悲しみ、どのようなことに憤りを覚えるのか等、その人との交わりを多く持ち、より親しくなり、その人自身を知ることによって、知っていくものです。

そして、神さまご自身を知ることを願うならば、聖書を熱心に読む必要があります。聖書は神さまの生きたことばであり、聖書のみことばを聴くことによる以外に、正しく神さまというお方を知る方法はありません。ただ習慣的に読むのではなく、神さまご自身がどのようなお方であられるのかを知ることを願い、そのことをいつも意識しながら読んでいかなければなりません。神さまは、聖書のみことばによって私たちをお取り扱いくださり、お導きくださいます。

よく聞かれるのが (私自身もそうでしたけれども)、ディボーションなどで聖書は少ししか読めなかったり、惰性で読んでいるようになっているけれども、お祈りは積極的に割と長い時間できるというような内容の声です。しかしそのようであった私自身が気づかされたことは、それは一方的に自分の思いや願いを言い放っているだけで、祈りとはなっていないということです。祈りというのは神さまとの対話であり、生きたお交わりです。神さまが語られることを聴かずに、一方的に言いたいことを言っているだけであるとすれば、対話とはなりません。

ここでまた、D・M・ロイドジョンズ師がジョージ・ミュラー師について、『試練の中の信仰(詩篇73篇)』(D・M・ロイドジョンズ著、櫛田節夫訳、いのちのことば社) の中で触れている部分を引用したいと思います。ロイドジョンズ師は、ジョージ・ミュラー師のことばを引用しながら「・・・ジョージ・ミュラーは教職者に、特に祈りの問題について講和したときにこう語った。彼は長年の間、毎朝最初に祈ることをした。しかしだいぶ以前から、それが最善の方法でないことを発見した。正しく霊的に祈るためには、自分自身が御霊のうちにいなければならないこと、まず自分自身を整えなければならないことに気づいたのである。そして彼は、祈り始める前にいつも、聖書、あるいは霊的な書物を読むことがよいことであり、最も有益であることを発見した。彼はそれを教職者たちに大いに勧めた。言い替えれば、神に正しく祈るためには、その前に自らの霊を正しく調整することが必要であることを見いだしたのである。」(3.霊的に考えることの重要性) と語っています。

祈り自体も、聖書から教えられなければならないものです。

しかし、教えられたとしても本当にわかっていないうちは、間違ったことを重ねていってしまいます。ですから神さまは、私たちを聖くしてくださるために、私たちが望んでいるようにはなされず、むしろ最も願っていない状況下に置かれることもあります。そうして罪ある私たちの思いは、神さまのみこころとはかけ離れていることを知らされます。罪深い私たちにとって非常に厳しい訓練を通らせられながら、真実な父であられる神さまご自身を知り、神さまのみこころを知る者とされていきます。そうして従順を学ばされるのでなければ、みこころを知り、従っていく者となることはできません。

くり返しになりますが、聖なる神さまのみこころは、罪ある私たちには理解できないようなもので、私たち自身が思っている最善とは真逆の方向へと事が進められ、大いに戸惑うこともあります。しかし後になって、それがそうでなければ決して得られなかった大きな益となり、自分にとって最善であったことに気づかされます。神さまが自分を子として扱ってくださり、聖化のみわざを進めてくださっていることを知らされます。自分の願いがかなえられないことを経験させられ、私たちは自分の思いや願いではなく、従順に神さまのみこころがなされることを真に願う者とさせられていきます。

最後に、私たちの主イエス・キリストに心を向けたいと思います。

主イエス・キリストは受難を前にされ「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈られました (マタイの福音書26:39)。それは、私たちの身代わりに受けられる十字架のさばきが、父なる神さまとの完全なる断絶であり、その恐ろしさを知っておられたからです。主イエス・キリストが人としてこの地上を歩まれた際、願われていたことは常に父なる神さまの栄光でした。御子であられるイエス・キリストは、父なる神さまとの祈りの交わりの時を絶やされませんでした。永遠に一つであられ、父なる神さまご自身の御子であられるお方です。天から下られ、完全な人となられた御子イエス・キリストは、父なる神さまとのお交わりの時を、どれほど大切にしておられたでしょうか。そのようなお方が、私たちの罪を背負われ、父なる神さまの御怒りを受け、永遠のさばき ― 父なる神さまとの完全な断絶 ― を受けられたのです。私たち罪ある者のかなえられない願いは、神さまから離れるようなことであるのですが、罪なきイエス・キリストの願いは、その正反対の事柄でした。主は、苦しみを受けなければならないことをご存知であられ、苦難のしもべとして、十字架の苦しみを受けるためにこの世に来られましたが、その時を目前にされて愛する御父と断絶させられなければならない苦悶を覚えられ、血の汗を流して祈られました。ですからその願いは、決して神さまのみこころに反逆するような心から出たものではありませんでした。しかし杯が過ぎ去らせられるという願いがかなえられなかったのは、父なる神さまを憎み、反逆する私たち罪人のためでした。主は、真実に神さまのみこころの通りになさってくださるようにと願われ、十字架の死にまでも従われたのです。そして、このお方は復活されました。父なる神さまは、イエス・キリストをよみがえらせられたのです。

ヘブル人への手紙には、このように記されています。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」(ヘブル人への手紙5章7~10節)

神さまのみこころを知ることを本当に求めるならば、何よりもイエス・キリストを知ることを熱心に求めなければならないと、ますます思わされています。


※ 聖書引用「聖書 新改訳第三版」(新日本聖書刊行会)より  

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