【失望しないで】について

「義認」と「新生」について


「義認」と「新生」について、非常に難しい事柄ではありますが、【失望しないで ー求め続けるべき神の祝福ー】の中に記したことから誤解を招いてしまうといけないので、ここで以下のように記しておきます。

新生には備えのみわざ、恵みのみわざという一連のみわざがあります。

原罪を抱える人間には神の律法に対して罪を自覚する能力もありません。ですから、「罪の自覚」も御霊によるみわざですが、それは備えのみわざです。

イエス・キリストを信じる信仰へ導かれた時点で、新生は確実ですが、「新生した」とは言えません。その前に「義認」があります。

義認と新生が区別されるべきなのは、その混同によって「義とみなされる」ことが「本質的に義とされる」と説かれたり、「新生したため義と認められた」と説かれる場合が、これまでの歴史の中でも実際に見られていることと、聖書がそこに密接な関連を示しながらも混同させてはいないからです。(参考: ジャン・カルヴァン『キリスト教綱要Ⅲ/1』)

義認というのは、「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」(ローマ書4:5)と言われている通り、「何の働きもない者」、「不敬虔な者」を、そのように悟らされて、ただキリストにのみ信頼する者にキリストの義を着せ、義とみなしてくださることであり、「本質的に義とされる」のでも「新生したから義と認められる」のでもありません。

義認は、罪人であるにも関わらず、義とみなし、義と宣言してくださることであり、新生は、新しく生まれること、神から生まれること、神の新しいいのちが与えられること、神の種、新しい性質の種が植えつけられることです。

それゆえ、義認と新生は切り離せず、義と認められていて新生していないことはありませんし、新生していて義と認められていないことはありえませんが、生まれながらの罪人を信仰という器を通して義とみなしてくださるという義認の教理から、新生の後に義認を置くことは誤っています。

律法による断罪、その刑罰への恐れ、自分で自分を救うことはできないことを悟らせる備えのみわざと、福音の中にある救いの約束を知らせ、信仰を生じさせ、義と認めてくださり、たましいに安らぎを与えてくださることへと続く恵みのみわざという一連のみわざの中で、父なる神に義と宣言され、それゆえに新生したと言えるいう認識でしょうか。御霊なる神がなさる新生の一連のみわざの中で、義認があり、神との和解があり、神の子とされるということには順序があります。

ヨハネの福音書3章と4章に見られる、ユダヤ人ニコデモとサマリヤの女に対する主イエス・キリストのお取り扱いにおいても、ご自身を信じる信仰によって救われるということに基づいて彼らを取り扱われていることがわかります。信仰義認と新生に切り離せない結びつきがあることを示される中で、主に新しく生まれることの重要性について、神の民とされていたユダヤ人も異邦人も、神の国の霊的事柄を知り、味わうこと、神を礼拝すること、そのために絶対必要なこの事柄についてはっきりと主ご自身が語られている、ヨハネの福音書特有の箇所です。

さて、区別される必要がありつつ、決して切り離せない義認と新生について聖書が語っていることから、ペンテコステの日から新生が実現するようになったと説く人々に対し、やはり私にはそれ以前にイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められた聖徒たちについてどう説明をつけるのか、理解ができません。ロイドジョンズ博士は『GREAT DOCTRINES OF THE BIBLE [GOD THE HOLY SPIRIT 9.THE NEW BIRTH] 』の中で、はっきりと旧約時代の聖徒たちも新生していたと説いています。

また、新生について「大きな変化」とか、クリスチャンになるということは「白黒テレビがカラーテレビになるようなこと」というように説明する教師たちがいますが、新生について、キリスト者とされることについて、そのような表現は全く不適切であると言わざるをえません。新生というのは、まるごと全てが変えられること、「古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなる」(Ⅱコリント5:17)ことです。

ロイドジョンズ博士の『THE KINGDOM OF GOD [11. BORN AGAIN] 』の中に、非常にわかり易い建物のたとえがあります。新しい建物が建つ前に、古い建物が取り壊されるということです。必要なのは、古い建物の壁を塗り直したり、ある部分を修復するという手を加えるのではなく、取り壊して、そして全く新しく建てられること、これが新生、新しく造られるということです。

私は新生とは異なる聖霊のバプテスマを受け入れない方から、"聖霊のバプテスマを新生とは別のものとし、その素晴らしさを語るあなたは「大きな変化」では満足できないのでしょうか" という批判も受けましたが、私には新生について「大きな変化」程度の認識で満足していられることこそ疑問です。あるいはその「大きな変化」の意味が、内側の深いところからの変化について言っているようには受け取れないのですけれども、それは、御霊なる神の計り知れないみわざである新生をその程度でしか考えられない人間の尺度での認識であり、聖書が語っている水準とはまるで違うからです。

私は、聖霊のバプテスマの重要性を言及しながら、それ以上に新生を重要としています。

新生していなければいのちそのものがなく、聖霊のバプテスマはいのちがあることを明確にするものであり、そもそもあるいのちに力を与えるものであるからです。

いのちがあっても力がなければ、いのちあるものらしく生きることができないので、力も絶対必要なのですが、いのちそのものがなければ何も始まりませんので、新生をより重要としています。

クリスチャンであることを決定づけるのは新生して神さまのいのちを有していることであり、クリスチャンであることをこの上なく確信づけ、明確にするのが聖霊のバプテスマです。

新生しているならば、聖化も聖霊のバプテスマも重要です。いずれも、新生していなければ起こらないことです。ですから、まず絶対必要なのは新生です。

新生についての重要性の認識のなさに気づいていただきたい、ということも、この書を出すに至らされた大きな目的でした。そして私自身、新生の重要性と素晴らしさ、救いに対する理解と確信がもたらされたのは、「聖霊のバプテスマ」を受けたゆえです。聖書が語っている「救い」というものが明確にわからず、もはや生きていけず "今日こそは死のう" と、耐えられないほどの苦悩の年月を過ごしました。

ですから私は、そのように苦悩する方々を覚えて【豊かな牧草地へ】も、【失望しないで】も、出版に至らされたのです。批判や非難はいくらでも受けますが、事実、キリストの十字架の意味も、キリストの血の意味も、キリストの復活の意味も、信仰義認も、新生も、福音理解が全くと言わざるをえないほどないにも関わらず、現状に自己満足している人々のためにではなく、現状に満足している人々によって苦しめられている方々を覚えての書であることを忘れないで頂きたいと思います。

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