キリスト教とは

        キリスト教とは何でしょうか。

              ここでは、よく見聞きする先入観や誤解に対し、

            ①キリスト教への先入観に対して ②キリスト教信仰への誤解

               という二つの点から説明したいと思います。

①キリスト教への先入観に対して

キリスト教について抱いている印象は、どのようなものでしょうか。しばしば見受けられる先入観に対して、実際のキリスト教はどのようなものであるのか、ここに記したいと思います。

キリスト教に対する先入観としてよく耳にするのは、キリスト教徒になったら「~をしてはいけない」ということばかりになるというものです。あれをしてはいけない、これをしてはいけない、制限ばかりで自分の好きなことが何もできなくなる、それは、生まれながらの人間にとって当然の反応です。

聖書に目を向けると、神さまがすべての被造物を創造され、人を特別に神さまとの交わりを持つ存在として造られたことが記されています。

人には、エデンの園において、たった一つ「~してはいけない」と言われていたことがありました。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」ということです(創世記3章16,17節)。

しかし、まずエバがその実を取って食べました。その経緯は、悪魔に誘惑されて、ということでした。その誘惑というのはどのようなものであったかと言えば、その制限について窮屈なものであるような働きかけをしていき、神がそんな意地悪なことをされるはずがない、というように巧妙な惑わしていき、その実を食べたら神のようになれる、と自尊心を湧き起こさせていったのです。そして人類の代表者であったアダムも、エバを戒めることをせず、与えられた実を食べました。

人間には、あるいはしてはいけないということが分かっていてもしてしまう、せずにはいられない、また、してはいけないと言われるとしたくなる、という性質があります。そして、自分が何をしようと勝手だろう、何が悪いんだ、と開き直っていきます。人にそれ程迷惑をかけていなければ良いのだ、法に触れるようなことをしなければ良いのだ、などと自分の中で自分を正当化していきます。

それこそ、人類の代表者アダムにあって、生まれながら罪と悪の支配の中にある人間の姿です。

そしてその支配の下にある人間が、聖なる神さまの基準で「~してはいけない」と言われても、絶対的に実行不可能なのです。

堕落する前、罪が入る前に、悪魔に誘惑されてしてはいけないたった一つのことをしてしまったエバ、そしてアダムでした。ましてや、罪と悪の支配の下、その奴隷状態となっている生まれながらの人間が、してはいけないことをしないでいられるはずがありません。

キリスト教は、形から入るというものではありません。単なる教えではありません。修道院などに入り、世の誘惑から逃れて聖い生活を送ろうというものではありません。

完璧なエデンの園という場所において、完璧であったアダムとエバが堕落したのです。

キリスト教が取り扱うのは、人の根本的なところです。つまり、まず、全く新しく変えられることです。

最後のアダムと言われる代表者イエス・キリストは、人として神の律法に完璧に服従されました。私たち人間が、絶対不可能な律法の義を完璧に行なわれたのです。そして、人々の身代わりに罪の刑罰を受けてくださいました。完全に死なれ、葬られ、そして復活されました。罪と悪魔と死と地獄を打ち破られ、勝利されたのです。

このお方を信じる信仰によって義と認められた者は、新しい人として、すべてが変えられるのです。

あらゆるものの見方も、価値観も、考え方も、罪と悪の奴隷状態であった時とは全く異なるものとされるのです。そして成長させられ、ますます変えられていくのです。

神さまによって「~してはいけない」、また「~しなさい」と言われていることに対しても、窮屈に感じたり、正当化しようとするのではなく、積極的に従いたいと思うようにさせられていくのです。そしてまた、実行していくことができる者とされていくのです。

「キリスト教精神」などとよく言われますけれども、まず根本的に、全面的に新しく変えられることなくして、「キリスト教精神」を理解することも実行することも、現実的に不可能なのです。

不可能な者に「~してはいけない」、「~しなさい」などと無茶なことが言われているのではなく、まず、それが実行不可能である人間への救いが差し出されているのです。

②キリスト教信仰への誤解


キリスト教信仰とはどのようなものでしょうか。世の中で"信じる者は救われる"と冗談めかして言われるのを聞くことがありますが、実際キリスト教信仰者は何を信じ、何から救われたと理解しているのでしょうか。

キリスト教信仰というのは、まずありのままの現実を直視させられるものです。

たとえば、人はなぜ死ななければならないのでしょうか。死というのは、人間にとってもあらゆる生き物にとっても最悪の事態です。人間は、その問題に真正面から向き合うことができません。死ななければならない理由はわからないけれども、そういうものなのだ、だから、生きている今を大切に、精一生きましょう、などと言います。しかし、最終的に死ななければならないなら、今という時は一体何のためにあるのでしょうか。自分もいつかは死ななければならない、その最悪の事態を迎えるということは、誰もが知っている現実です。

死ななければならないのには、明確な理由があります。これも誰もが知っている通り、罪に対する最も重い刑罰は死刑です。私たちすべての人間は、それに相当するということです。 聖書にはこのようにあります。「罪から来る報酬は死です」(ローマ人への手紙6章23節a) 。ここで言われている死は、「第二の死」、「永遠の死」のことで、私たちは誰もが肉体の死を迎えます。そしてその後に最後の審判があり、永遠の行き先、その審判が下されるのですが、私たちはまず、上の【キリスト教への先入観に対して】にも記したところに遡る必要があります。

そもそも人類に罪が入らなければ、造り主であられる神さまとの関係を失うという意味の霊的な死も、肉体的な死も起こることはありませんでした。死というのは罪の結果であり、最悪の事態である死を招くのは罪であるという以外に、納得できる説明があるでしょうか。人間は、罪人だとか罪ある存在だとか言われることに納得がいかないのですが、死ななければならない現実に対してどうすることもできません。

キリスト教はこの問題をストレートに語り、知らせることができるものです。死ななければならない明確な理由を知らせてこそ、救いの道を明確に知らせ、死を越えた明確な希望をもたらすことができるからです。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6章23節) 

このように、人間がまともに向き合うことのできない現実に真正面から向き合わせるのがキリスト教です。そうでなければ、あらゆる事柄を事実として信じることはできず、単に現実から目を反らして、空想にふけったり自分の願望を思い描いているだけにしかなりません。

キリスト教信仰に対して教会内でもよく見られる誤解は、理解しようとするのではなく、言われていることをそのまま本当のことだと受け入れるのだ、というものです。半分はその通りです。理解できない、理解に及ばない事柄が多々あります。しかし、理解すべき一定の真理というものがあります。何も理解していないことを、どうして信じることができるでしょうか。聖書の教えには、筋道があります。そしてキリスト教信仰というのは、理解させられている事柄に基づいて筋道を立てて考え、理解に及ばないことも信じることができるものです。

キリスト教信仰においてはまず、真理への理解が必要なのであり、理解させてくださるのは神ご自身のお働きによります。神さまは人を、他の生き物にはない知性を備え、お造りくださいました。しかし堕落した人間には、その知性を正しく働かせることができません。聖書は真理を論理的に語っていますが、その論理性がわかりません。

聖書の真理が正しい順序と内容でもって伝えられ、そこに神さまご自身がお働きくださり、理解させられるのです。その過程で、生まれながらの人間の知性で真理を理解することは不可能であることを悟らされます。

筋道も何もなく、ただ言われたことをそのままその通りだと受け入れる。何度もくり返し言われて、それが真実なのだと思い込まされる。それは恐るべき洗脳です。堕落していても、他の動物が持っていない知性は、人にとって最も高尚なものです。洗脳は、不安や悩み、弱みなどにつけ込んだり、恐れさせるなど圧力をかけて知性の働きを停止させ、ある観念を強制的に植え付けさせます。

ただ感情に訴えるようなものも危険であり、これも人の知性の働きを停止させて情緒を操るものです。感情を先に立たせるのでなく、知性で理解した上で、理解させられたことに対して感情が伴ってくるのでなければなりません。

どんな場合においても「とにかくすべては恵みと考えて感謝しましょう」、「愛してくださっているイエス・キリストの中に飛び込むことです」、「何はともあれ主を見上げていることです」。このようなことは、私自身幼い頃から散々聞いてきましたが、キリスト教信仰というのは、そのような短絡的なものではありません。それでよいなら、66巻の聖書は必要ありません。

キリスト教信仰というのはそのようなものではなく、まず最初に知性が本来の働きをし、秩序を立てて考えるものです。それから感情、意志という順序で、それらも正しく働かせることができるものなのです。

※ 聖書引用「聖書 新改訳第三版」(新日本聖書刊行会)より

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