「贖いの日」とキリストによる贖い

第七の月の十日に定められていた「贖いの日」は、イスラエル人にとって最も厳粛な日でした。

この「贖いの日」について、またキリストによる贖いとの関連について確認したいと思います。

この日は、イスラエルの民、イスラエルのすべての民の贖い、個人ではなく全イスラエルの贖いということが重要であったわけですけれども、概念としては「礼拝者によって汚された聖所のきよめ」と言われています。
聖所は、イスラエルの民が集って礼拝をするところであり、神の民イスラエルが、まさに神の民として生きる中心的なところでした。

 「過越の祭り」の際のいけにえは、傷のない一歳の子羊が、家族の人数に応じて取られました。個人個人にその子羊が用意されたのです。そしてその血は、出エジプトの際には門柱とかもいに塗られたのですが、後には祭壇に振りかけられてその土台に注がれることとなりました。 

「贖いの日」は、まず大祭司が身をきよめて、動物のいけにえを携え、聖なる装束を着て聖所に入りました。
そしてまず自分と自分の家族のために贖いをしなければなりませんでした。
また、その場所や器具などもその血によってきよめなければなりませんでした。
 ここで必要ないけにえは、「罪のためのいけにえ」と「全焼のいけにえ」 でした。
「罪のためのいけにえ」の主な目的は「罪のきよめ」であり、「全焼のいけにえ」の主な目的は「なだめ」でした。 

祭司とその家族の場合は、若い雄牛(罪のためのいけにえ)、雄牛(全焼のいけにえ)

イスラエルの会衆の場合は、雄やぎ2頭(罪のためのいけにえ)、雄羊1頭(全焼のいけにえ) 
がささげられました。
まず、祭司が若い雄牛の血によって自分と自分の家族のために贖いをし、場所や器具などもその血によってきよめた後、イスラエルの会衆の罪のためのいけにえである雄やぎ2頭を「主のためのいけにえ」と「アザゼルのため(アザ
ゼルのやぎ)」に取ったのですが、これはくじで決められたと記されています。
アザゼルということばは、謎のことば言われていますが、いずれにしてもそのアザゼルのやぎの頭に祭司が両手を置いて、民のすべてのを告白し、そのために任命された人が荒野に放ちます。そのことでイスラエルの会衆の罪が象徴的にそのやぎ転嫁され、荒野に捨て去られ、それですべての背きが取り除かれるのです(レビ記16章20~22節)。
そして罪のためのいけにえは、祭司とその家族のため雄牛の血が振りかけられたと同様、至聖所の契約の箱の上の贖いのふたの東側と前(レビ記16章14節)に振りかけられました。祭司はその後、装束を脱いでそこに残し、聖なるところでからだに水を浴び、通常の祭司の衣服を着て、外に出て全焼のいけにえをささげました。

以上が、非常に簡単ですけれども、贖いの日の儀式でした。
 
この「贖いの日」というのは、個人ではなくイスラエルの民全体のため、そのいけにえの血によって贖いがなされたというところから、現在で言えば教会」全体の贖いのことが表されていると思われます。

主は、まことのいけにえであられたと同時に、まことの大祭司でもあられます。「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(へブル人への手紙9章11節,12節) 

そして、「・・・ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(ヘブル人への手紙9章23~28節) と記されています。

「贖いの日」は、キリストによる最終的な贖い、救いの完成にまで目を向けさせています。

エペソ人への手紙には、「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(5章25~27節) とあります。

キリストはご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所、すなわち天そのものに入られ、永遠の贖いを成し遂げられました。

現在、私たちの完全な贖いはまだ実現していません。私たちは朽ちていくからだを持ってます。しかし最終的にはからだも贖われ、完全に贖われます。私たちは「心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」(ローマ人への手紙8章23節)

最終的な贖い、栄化、それがすべてのキリスト者、つまりキリストの花嫁である「教会」に実現されるのは、天と地が改まる時であり、イエス・キリストの再臨の時です。

主イエス・キリストはすでに永遠の贖いを成し遂げられたので、二度目の来臨の際には、主を待ち望んでいる人々のために来られます。

※ 聖書引用「聖書 新改訳第三版」(新日本聖書刊行会)より

無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう