すべて、疲れた人、重荷を負っている人は

「「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。私は心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」」マタイの福音書 11章28節

この個所は、いやしを提供し、招くようなみことばとしてしばしば掲げられ、人間が完全に一人歩きさせている聖書個所の一つですが、文脈を見ていきたいと思います。

この章の最初の方まで遡ると、バプテスマのヨハネが獄中から弟子たちに託し、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」(11:3) と主イエス・キリストに言い送り、主は彼らに「自分たちの見たり聞いたりしていることをヨハネに報告しなさい。・・・」(11:4) とお答えになったことが記されています。そして彼らが行ってしまうと、主は群衆たちにバプテスマのヨハネについて「耳のある者は聞きなさい。」(11:15) と仰りながら話されたことが記されています。それから、主は、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったため、責め始められたことが記されています (11:20~24)。そうして、「そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵ある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」(11:25~27) と語られた上で、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(11:28~30) とあるのです。

キリスト教がまず最初に人々に語ることは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:2、4:17) です。これは、主イエス・キリストの先駆者であるバプテスマのヨハネがまず語ったことであり、主ご自身が公の生涯に入られ、宣教を開始してまず最初に語られたことでした。

〔悔い改め〕、それは、神に背を向け、自分自身が主となっていた生を見直し、神に対する罪を心の底から認めて神との関係の回復を求め、主なる神を主としていくことに方向転換することです。自分自身が主となったままで、自分の望むいやしを与えてくださるであろうイエス・キリストのところに行くのではありません。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐに』(マタイ3:3) するために遣わされたバプテスマのヨハネは、徹底的に悔い改めを説き、悔い改めのバプテスマを授けていました。そうでなければ、人々が神の御子イエス・キリストを主として迎えることはできないからです。

主イエス・キリストご自身が、山上の説教 (マタイ5~7章) の冒頭でお語りになりました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(5:3)。 この「心の貧しい者」の意味は、自我、自尊心という意味で、自分に対して貧しい者、空っぽな者ということです。そして「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」(5:4) と続きます。まず自分の罪を自覚し、自分自身の罪に悲しむこと、当然そこには悔い改めがあります。そのような人こそ、イエス・キリストによってのみ可能な真の慰めを知るのです。

それでは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(11:28~30) とは、前の文脈から見ると、悔い改めもなく、御子なる神イエス・キリストと父なる神を知らないすべての疲れた人、重荷を負っている人たちに突然このように言われたことばなのでしょうか。

ここの「休ませてあげます」には、原語ギリシア語で「労働の一時停止による休息」という意味の「休む」ということばが使われています。「疲れる」ということばは、ヨハネの福音書4章6節で「イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。」とある「疲れ」と同じことばです。私たちはキリスト者とされても、弱い肉体を持っていますし、あらゆる弱さがあるので、疲れたり重荷に押し潰されそうになることがあります。むしろ、キリスト者であるがゆえの労苦や重荷があります。そして休息を必要とします。イエス・キリストは実際、完全な人となられたので、この世において疲れたり重荷を負うことを知り、同情してくださるお方です。イエス・キリストこそ、誰よりも労苦され、私たちが負うことのできない重荷を負ってくださったお方です。そのような主のところで、主から学ぶとき、私たちは肉体の休息だけでなくたましいの安らぎを得ることができます。

「くびき」というのは、重い荷物を運ぶ二頭の動物に固定される頑丈な横木で造られたものです。このくびきで固定された二頭の動物は、違った方向へ行くことはできません。ですから、「わたしのくびきを負う」とは、「主イエス・キリストの道をまっすぐに行く」ということです。他のところに休息を求めていくのではなく、重荷を負わされるから他の道にそれていくのではありません。確かにこのお方の道は、とても歩んでいけるような道ではありません。しかし、主イエス・キリストの道をまっすぐ行くとき、一人で背負い込むのではなく、誰よりも労苦され、重い重い荷を負ってくださった主が伴ってくださいます。まっすぐにその道を行くならば、そのような主がともに背負ってくださり、主がその荷をともに持ってくださるので、ただ前進していくことができ、その荷は軽いものとなるのです。

私たちには、キリストの道とは完全に逆行するこの世にあって、価値観も、観点も、考え方も全く異なるこの世にあって、たましいの安らぎが必要になります。

主は「心優しく、へりくだって」おられます。キリストの道をまっすぐに進む時にこそ、心優しくへりくだった方のお心を知り、このお方から学ぶことができます。

ですから、このみことばは、父なる神を知り、子なるイエス・キリストを知る者、そしてこの世にあってキリスト者として生きる者でなければ、真意のわからないみことばです。

それは単なる精神療法、精神安定剤としてのことばではなく、妄想でも現実逃避でもなく、主を主として知る者、イエス・キリストを主とするすべてのキリスト者の現実なのです。


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