パスカル【パンセ】から

『人間は一本の葦にすぎない、自然の中でもいちばん弱いものだ。だが、それは考える葦である。これを押しつぶすには、全宇宙はなにも武装する必要はない。一吹きの蒸気、一滴の水でも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙が人間を押しつぶしても、人間はなお、殺すものより尊いであろう。人間は、自分が死ぬこと、宇宙が自分よりもまさっていることを知っているからである。宇宙はそんなことを何も知らない。

だから、わたしたちの尊厳のすべては、考えることのうちにある。まさにここから、わたしたちは立ち上がらなければならないのであって、空間や時間からではない。わたしたちには、それらをみたすことはできないのだから。だから、正しく考えるようにつとめようではないか。ここに、道徳の原理がある。』

ブレーズ・パスカル【パンセ】

パスカルの言葉の中でも最も有名な言葉ですが、この言葉は、このように記したパスカルの意図とはほぼ間違って捉えられていることを思います。

私も、パスカルが伝えたかった通りに、完璧に正しく捉えることができているとは言えませんが、「人間は考える葦にすぎない」、あるいは「人間は考える葦である」というところだけ抜き出されてしまっていては、当然、パスカルが何を伝えようとしたのかが全く間違って捉えられてしまいます。

パスカルは、物理学者、数学者としても、神学者としてもよく知られている天才ですが、人間の理性というものを大切にしつつ、その限界をよく知っていた信仰者であったこと、信仰者として非常にバランスの取れた思考をする人物であったことが、【パンセ】を読み、考えるとよくわかってきます。『理性の最大の働きは、理性の限界を知ることである。』や、『二つの行きすぎ。理性をしめ出してしまうことと、理性だけしか認めないこと。』という言葉からも、そのことがわかりますが、この【パンセ】も、あるところと、また他のあるところとでは、矛盾したことを言っているのではないかと思えるところが多々あります。この【パンセ】"も" というのは、何より聖書がそのように誤解される場合が多々あり、全体を見なければ当然そのような誤解をしてしまうものです。また、聖書も同様、翻訳されたものには翻訳する時点で翻訳者の解釈も入っていること、このことも覚えておきたいと思います。

そのようなパスカルの【パンセ】の中の有名なこの言葉から、私なりに考えさせられたことを記します。

「葦」というのは、イザヤ書42章3節、またその預言の成就として引用されているマタイの福音書の箇所の12章20節「彼(イエス・キリスト)はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。」からとったものだろうと言われています。

人間は、そのような弱い存在です。宇宙という空間はとてつもないもので、その宇宙が人間を殺すために力を使う必要などありません。しかし人間はそれでも、そのような宇宙が何かを知ることも考えることもしない存在であるのに対し、知ること、考えることをするゆえに、尊い存在です。それも「自分が死ぬこと、宇宙が自分よりもまさっていること」、このようなことを知っているゆえにです。

「正しく考える」こと、これは、神さまご自身がお働きくださらなければ、神さまとの関係が回復されなければ、不可能なことです。神さまとの親しい交わりを持つことができる存在として造られた人間、神さまのかたちに造られた人間の尊厳は、まさにそこにあると思います。そして「道徳の原理」は、まさにそこにあると思います。

信仰とは考えること、と言われます。何も考えることをせずに信仰を働かせることはできません。何も理解していないことについて考えることはできません。理解すべき真理があるからこそ、理解に及ばないことをも信じることができます。宇宙の計り知れなさも、その計り知れなさを知る人間は、神さまの計り知れなさを知ります。宇宙はそのことを知りません。

さて、この言葉は「哲学者たち」という題の中にある言葉なのですが、「信仰の方法について」という題の中に、「わたしたちが真理を知るのは、ただ理性によるばかりではなく、また〝こころ〟にもよる。わたしたちが、第一原理を知るのは、何よりこの後のものによるのである。...」という言葉があります。「...この〝こころ〟の触れ合いがなければ、信仰といっても人間的なものにすぎず、救いに役立たない。」で終わっている文章となっています。

〝こころ〟に傍点がついており、ここの文章を読むと、それは「感じるとるところ」であると受け取れます。

「こころ」について説明するのは人間にとって難しいことでありますが、人格の中心であり、人の全体を包括しているところ、というように言われます。人は、生まれながらに霊的に死んでおり、神さまとの関係が切り離されています。霊的に生かされなければ、霊なる神さまと人格的な触れ合い、こころの触れ合いはできません。神さまとの〝こころ〟の触れ合いをよく知っていた霊的な人パスカルが、誤って受け取られがちな単なるフィーリングのようなもののことを言ったのではないことは確かでしょう。目に見えない神さまとの直接的なこころの触れ合い、そのことがなければ、信仰と言っても救いに役立つ信仰ではないこと、私自身、そのことがわからずに本当に苦悩したものでした。

思いを巡らしていくと、果てしがなくなっていきますが、これは私がパスカルの有名な言葉から考えさせられたことであり、パスカルがこのようなことを伝えようとしたのかどうかは明確にはわかりません。

ただ、人間がどのような存在であり、そうであるがゆえに『考える』ということ、信仰者として『正しく考える』ということをさせようという思いが伝わってくるため、つたないながら私なりに考えたことを文章にしてみました。


『わたしたちは真理を願い求めながら、自分のうちに見出すものはただ、不確実だけである。

わたしたちは幸福を求めながら、見出すものはただ悩みと死だけである。

わたしたちは、真理と幸福とを願い求めずにはいられない。しかも、確実なものも幸福も得ることができない。

この願いがわたしたちに残されているのは、わたしたちを罰するためでもあり、また、自分たちがどこから落ちたかをわたしたちに感じ取らせるためでもある。』

                           ブレーズ・パスカル【パンセ】

私はフリードリヒ・ニーチェに共感するように、「幸せとは何か。希望とは何か。確かなことは、キリスト教にはそれがないことである」というようなことを、心の中で言っていました。偽りのキリスト教が心に住んでいた時には。


『真の幸福を求めて、かなえられず、くたくたに疲れきるのはよいことである。そうしてこそ、救い主に手をさしのべるようになるのだから。』

ブレーズ・パスカル【パンセ】

偽りのキリスト教に真の幸福を求めても、かなえられることはなく、疲れ果てた私は、真の幸福は、真のキリスト教にしかないことを知りました。


『人間が偉大なのは、自分の惨めさを知っているという点において偉大なのである。木は自分の惨めさを知らない。

ところで。(自分の)惨めさを知るのは、惨めなことである。しかし、自分が惨めだと知るのは偉大なことである。』

ブレーズ・パスカル【パンセ】

私は考えました。

人間が自分の惨めさを知らないということは、人間としての偉大さを持ってはいないということなのか、と。

神ご自身のかたちに造られた人間は偉大な存在です。

しかし人間は、堕落してしまいました。

堕落しているすべての人間は、自分の惨めさを知りません。

惨めになりたくない人間は、自分の惨めさを知りたくはありません。

しかし、自分が惨めだと知るのは、確かに偉大なことです。

私は考えました。

神さまの御前に自分の惨めさを知って、人は偉大な存在へと回復されるのだ、と。


『自分の惨めさを知らずに神を知ることは、傲慢を生む。

 神を知らずに自分の惨めさを知ることは、絶望を生む。

 イエス・キリストを知ることは、そのほど合いをつくり出す。わたしたちは、そこに、神と自分の惨めさを見出す

 からである。』

ブレーズ・パスカル【パンセ】


私は人間の惨めさを感じてはいても、自分の惨めさを知らず、自分の惨めさを感じてはいても、神というお方を知りませんでした。

神さまがお与えくださったご自分の御子、唯一の仲介者イエス・キリストを本当に知るまでは。

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