自分はクリスチャンなのか

Q クリスチャンとは何なのか、自分はクリスチャンなのかわかりません


「クリスチャンとは何か」に関しては、様々な角度から言えるところですが「自分はクリスチャンなのか」ということについて確認していく観点から、ここでは書いていきたいと思います。

自分は本当にクリスチャンなのかがわからない、そうは思えない・・・それは私自身、非常に悩んだことでした。

まず言えることは、クリスチャンとされていなければ、自分はクリスチャンなのかどうかと真摯に悩むことはないでしょう。

神さまご自身が働いてくださらなければ、クリスチャンとはなれません。

クリスチャンとは、「御霊によって新しく生まれた者」です。

それでは、御霊によって新しく生まれた者の実際的な事柄について見ていきたいと思います。

御霊によって新しく生まれるということは、内側でなされる御霊によるみわざです。自分の内側で何かがなされたことは、私たち自身も認識できます。それがほんの僅かでしかないような薄い認識でしかなくても、認識させられていることに違いはありません。その変化はクリスチャンホームに生まれ育った者にもわかるものです。そして、新生させられたならば、御霊なる神さまは聖化のみわざも進めてくださいますので、内側の変化をより強く認識させられていくことになります。

自分自身がクリスチャンなのかと真剣に思い悩むことも、御霊なる神さまが内側でお働きくださっているゆえ、と言うことができます。クリスチャンでない人にとって、そのようなことは重要ではないからです。実際、クリスチャンとは何なのか、人間の考えるクリスチャン、人間基準でのクリスチャンではなく、聖書が語るクリスチャン、神さまの基準でのクリスチャンとは何か、そして自分は本当にそこに当てはまっているのか、と、クリスチャンでない人、言ってしまえば人間基準、自分基準で自分をクリスチャンだと確信しているような人は悩むことがありません。

クリスチャンの内には御霊が住んでいてくださるので、そのことを真剣に吟味させられます。ただ  "神さまの愛、キリストの愛を信じて、ためらわずに受け入れるのです。あなたの罪のためにキリストは十字架にかかって死んでくださったのです。神さまが恵みによってそうしてくださったのですから、神さまの子どもだということを疑ってはなりません。" などと漠然としたことを言われても、吟味にはならないので、悩み続けます。

教会の交わりについて]の中でも触れているように、御霊によって新しく生まれた者は、価値観も、関心事も、それまでとは根本的に異なる者とされているので、この世的なそれとは大きなズレを感じさせられます。

「自分はクリスチャンなのか」について、教理的な面というよりも実際的な面から確認していますけれども、教理の正しい理解、特に「救い」について、「信仰義認」について、理解することは重要です。

クリスチャンとは、「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められ」た(ローマ人への手紙3:24) 者です。

自分が救われたのは、ただ神さまの恵みによります。救われるためには人間側にもすべきことがあり、自分はそのすべきことをして救われた、自分が神さまの救いに応答した、信じる決心をしたのだというように思っており、完全に神さまの恵みによるということに反発心を覚えるとしたら、「救いとは」を確認し、吟味していただきたいと願います。

救いとは」に書かれてあることは、全く基本的なことですが、すぐには明確に理解することができないかもしれません。しかし、(やはり実際面のことになりますが)今よりもっとはっきりと理解したい、もっと救いの素晴らしさを知り、自分がクリスチャンであることを確信したい、という思いがあるなら、そのような思いを起こさせてくださるのも、理解させ、確信を与えてくださるのも、御霊なる神さまです。

ただ "とにかく神さまの愛を疑わずに信じるのだ" などと言い聞かせ、自分でそのような思いになろうとするのではなく、御霊なる神さまが起こさせてくださっている思いを打ち消すようなことをせず、真理をはっきり理解させてくださるよう、願い求め続けましょう。

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」(エペソ人への手紙2:13)  神さまは、クリスチャンとしてくださった者を、常に真実にお取り扱いくださり、導いてくださいます。

そして、クリスチャンであればこそ、悪魔が "お前は本当にクリスチャンなのか" というような声を投げかけてきます。正しい教理を理解していることにより、そのような悪魔の声に耳を貸すのではなく、聖書はこのように語っている、神さまご自身がこう語っておられるゆえに、悪魔の語りかけは真実ではない、と撃退することができます。御霊によって、聖書が語っているみことばの真理でもって悪を退散させることができるのであり、それ以外に強大な力を持つ悪魔に立ち向かう術はありません。

また、このことに関連して、自己完結をし、自己確信によって安心しきっている者には、悪魔はそのような攻撃をしかけてくることはありません。悪魔の標的は、神さまご自身であり、神さまご自身のものとされているクリスチャンだからです。悪魔は、自分の手中にある者をわざわざ攻撃することはありません。むしろ自分の手中にある者たちを用いて、クリスチャンを攻撃します。偽クリスチャンを素晴らしいクリスチャンのように見せて用いることは、お手の物です。

悪魔は、聖書が語っている救いを本当の意味で明確に理解したいと願っているクリスチャンに、"そんな必要はない。神は愛だと言われているのだから、神の愛を受けとめるならば何の問題もない。神の愛が信じられないというならば、君は到底クリスチャンとは言えないだろう" などと語り、そう願い求めさせないように働きかけてきます。悪魔にとって、神の救いを明確に理解されることほど脅威的なことはないからです。

あるいは悪魔は、 "重要なのは、堅苦しい聖書の教理だとか神学などではない。主イエス・キリストによって救われて天国へ行き、永遠に生きることを信じているのだから、ただ主を見上げて、喜んで、明るく楽しく主を賛美してクリスチャンらしく生きることだ" というように語ってきます。聖書の教理を正しく理解されてしまうと、太刀打ちできない反撃を食らい、逃げ去るしかなくなるからです。

私たちが、"主イエス・キリストによる救いとはこのようなもので、永遠のいのちとはこのようなことだと、私は主ご自身のことばである聖書から明確に教えられている。君が言っている救いとか、永遠のいのちとは一体何だと言うんだね。私はむなしい幻想を心に抱いているのではないのだよ。永遠から永遠まで生きておられる主イエス・キリストご自身を知らなければ、主を見上げることも、喜ぶことも、賛美することもできないのだよ。主ご自身を知ることができるのは、ご自身のみことばを聴くことによってなのだよ。クリスチャンらしく生きるとはどういうことだと言うんだね。クリスチャンの生き方とはどのようなものなのか、主ご自身が教えてくださっている一つ一つの教理を知らなければわからないし、ご自身の教えを実行された主イエス・キリストご自身の人としてのご生涯を知らなければ、私たちがそのような生き方を実行することは不可能なんだよ。君の言っていることは全く正しくない。惑わそうとしても無駄だ。私が知っている主イエス・キリストは、君が人々に植え付けようと躍起になっている幻想のようなものではなく、君が完全に敗北したお方で、そのお方はこのように教えてくださっているのだよ"  と反論するなら、悪魔は逃げて行くしかありません。

悪魔にとって、みことばの剣は、決して打ち勝つことのできない恐ろしいものです。

ですからクリスチャンは、御霊なる神さまのお働きと、悪魔の働きに葛藤することがあります。御霊なる神さまは、常にみことばへと向かわせ、みことばによってお導きくださるお方ですから、迷わずみことばを生きて理解し、神さまご自身、主イエス・キリストご自身を知ること、ご自身のみこころを知ること、そしてお従いしていくことを祈り願い、日々聖書を読むこと、みことばを聴くことを怠らないようにしていきたいと思います。

聖書をどのように読んでいったらよいかについては、「聖書通読について」をご覧ください。


※ 聖書引用「聖書 新改訳第三版」(新日本聖書刊行会)より  

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