イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方

「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」コリント人への手紙第一 2章2節

使徒パウロは、この手紙の1章から「キリストの十字架」(1:17)、「十字架のことば」(1:18)、「十字架につけられたキリスト」(1:23)と、復活のことには言及せず、十字架にのみ焦点を絞って記しています。復活のことについては、15章で言及しています。

ここでパウロが十字架のみに言及している理由は何でしょうか。パウロの決心とはどのようなものであったのでしょうか。

コリント教会には諸々の問題があり、パウロはまず彼らの間に争いがあり、誰につくかという問題について取り上げています。「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と、その中にパウロの名前もありました。そこでパウロは、「キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか」(1:13)と問い、自分の名によってバプテスマを受けたと言われないようにするため、クリスポとガイオ、またステパナの家族以外にはだれにもバプテスマを授けなかったと言います。

それからパウロは、「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです」(1:17)と進め、「知恵」の問題を取り上げながら「十字架のことば」、「十字架につけられたキリスト」の宣教について述べています。後の4章7節にも「いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか」とある通り、彼らの中に自分をすぐれた者として誇っていた者がいたこと、自分自身への誇りというものが問題となっていたことがわかります。

コリントは、哲学の国ギリシアの都市でした。いわゆる、人間的な知恵を誇り、より人間的にすぐれたものに頼り、誇りとする国の人々でした。すぐれたことば、すぐれた知恵、すぐれた賜物への誇りは、彼らにとって取り払われることが困難な問題であったでしょう。

では、パウロという人物について考えるとどうでしょうか。ピリピ人への手紙の中で、彼が自分自身について記しています。「...私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の洗礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です」(ピリピ3:4~6)。彼は、自他ともに認めるエリートの中のエリート、誇り高きパリサイ人でした。あらゆる面において突出してすぐれ、英才教育を受け、最高峰の知恵や知識を持っていた人物でした。ですからパウロは、コリントの人たちよりもずっとすぐれたことばで雄弁に語ることができたでしょう。

このような背景を考えると、パウロの決心というのは並外れたものであると思えます。すぐれた知恵を誇る人々に対し、もっとすぐれた知恵を持っていたであろうパウロが、コリントの人々のところへ行ったとき、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしなかった、と言います。「なぜなら私は、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです」(2:2)。パウロのことばと宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした(2:4)。それは、コリントの人々の持つ信仰が、人間の知恵にささえられるのではなく、神の力にささえられるためでした(2:5)。

パウロは、「イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方」以外は、何も知らないと決心をしました。誰よりも誇り高かったタルソのサウロの誇りを無にしたのは、「イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方」でした。十字架刑は、奴隷や重罪人という、いわゆる人間の中でも最低の身分や立場の者が受ける極刑でした。

彼は、ピリピ人への手紙の中でまた、「キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」(ピリピ2:6~8)と記しています。人の知恵は、十字架につけられたキリストを誇るには至らせません。愚かとしかしません。しかし、召された者にとっては、キリストこそ神の力、神の知恵です(Ⅰコリント1:24)。「誇る者は主を誇れ」(1:31)。十字架につけられたキリストこそ、救い主なる主であられ、救いを受けた者が誇りとするお方です。

誰よりも誇れるものを持ち、人間的なものを誇りとする人物の誇りを取り払い、彼をへりくだらせたのは、十字架につけられたイエス・キリストでした。すぐれたことばも知恵も、用いることができながら、用いずに、彼らから「その話しぶりは、なっていない」(Ⅱコリント10:10)などと批判されることも予想できる中でのパウロの重大決心は、生半可なものではなかったことを思います。

私たちの心を砕き、真にへりくだらせるのは、「イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方」を知ること、このお方だけを常に覚えていること以外にありません。

無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう