【豊かな牧草地へ】について
どのような思いで、あるいはどのようなことを思わされてこのような詩となったのかということなど、 ここに記したいと思います。
いつかは別れが来るならば
誰とも親しくなりたくなかった
親しくなればなるほどに
別れが辛くなるだけだから
いつかは終わりが来るならば
もうこれ以上生きたくなかった
終わりのときを身に感じて
生きる日々を迎えるだけと
今は決して続かない
良いことがあればあるほどに
終わりのときが辛くなる
良い思い出があるほどに
続かない時の切なさが募る
いつかは終わる人生に
何も残していきたくなかった
[絶望の中にあった日々]より
出会いがあれば、必ず別れがある。
親しくなった友だちとも、別れなければならない。
楽しかったはずの中学校生活も、そんなむなしさに包まれ、楽しさがむなしさとなり、楽しそうな同級生たちを見ているのもむなしく、中学校3年生の後半には学校にも行かなくなりました。
中学生で終わりを思ってこんなにむなしいのに、歳を重ねていったなら、どうなってしまうのかと恐ろしく思えました。だから今すぐにでも終わりが来ればよいのに、と思っていたのです。
周りに理解されないむなしさ、しかしそれ以上に、理解されたとしてもどうすることもできない人間の無力さ、そのむなしさの方が強くありました。
決して続くことがない、そんな今という時が何のためにあるのか、わかりませんでした。
自分にとって、特別良いことがあったわけではありません。
良いことがあっても、あるいは見つけても、良い思い出をつくっても、すべて終わりを迎える。
ならばむしろ良いことがあるほどに、良い思い出があるほどに、ただただむなしさが膨らむ。
そして結局は人生自体、終わりを迎える。
そのような人生に、良いことも、良い思い出も、何も残してはいきたくなかったのです。
空の鳥を見て羨ましかった
私も巣から飛び立ちたかった
私は羽ばたきたかったけれど
羽を折られて良かったと思う
神を離れて飛んで行く
羽を折られて良かったと思う
自分で自分を買い被る
羽を折られて良かったと思う
自分のために羽ばたいて
致命傷を負わなくて良かった
神の恵みに捕らえられて
豊かな住まいに戻ることができた
[羽を折られて]より
クリスチャンホームに生まれ育ち、15歳の時に戸惑いながらも洗礼を受けた私でした。
私は、神さまから与えられている賜物を、神さまのご栄光のために生かしていきたいと思って、進み行きたい道を追い求めていました。
それが一向に叶えられず、神さまに反発し、クリスチャンホームという身からも何からも飛び立っていきたいと、あがいていました。
完全に羽が折られた時、私はそもそも決して神さまのご栄光のことなど考えておらず、自分の栄光を求めて進み行こうとしていたことに気づかされました。それが、全く神さまから離れ、致命傷を負う道であることに気づかされました。
羽を折られ、自分には何も持てるものなどないのだと知らされて、神さまの恵みに捕らえられていることを知り、悔い改めて神さまのみもとに立ち返らされ、神さまの豊かな恵みのうちにあることの幸いを、真に知らされたのです。
自分を信じてと言うけれど
自分ほど信じられないものはない
それでも私は自分を信じた
そして私は裏切られた
自分さえも欺く自分に
自分ほど不確かなものはない
何かに依存しなければ
生きていけない自分だから
依存すべきところに帰ったとき
自分を信じなくてよいのだと
その荷を降ろすことができた
[平安を得る]より
「自分を信じる」、「自分を信じて」などとよく聞きますが、自分はどこから来たのか、何者であるのか、そのようなこともよくわからない自分の、何を信じるのかもわかりませんでした。
それでも自分を信じるとはこういうことだろうと思って、信じてみました。
自分の持てる力も自分を基準とした正しさも、結局は自分の中でも不確かなものです。
そうであるにも関わらず、それが確かなものであるかのように自分を欺く自分に、私は何度も裏切られました。
人は、そう認めたくはなくても、自分自身が不確かだから、何かに依存しなければ生きていけないことを、どこかで感じているのだろうと思います。
依存すべきところ、そこは唯一の確かなところです。
自分をお造りくださった唯一まことの生ける神さまのもとに帰り、もう不確かな自分を信じようと気張る必要はないのだと、荷を降ろすことができたのです。
人は神よりも人を愛する
しかし人を愛することができない
人は人よりも自分を愛する
しかし自分を正しく愛せない
そんな愛が罪だと知るなら
人は愛を知り始める
[愛について]より
生まれながらに罪の中にある人間は、いかに罪を愛だと思い込み、神さまを退けていることか、自分自身を振り返ると恐ろしくなります。
自分自身が見えていない罪人が、神さまの愛を知ることは不可能なのだとつくづく思わされました。
神さまの愛、真の愛を知るには、恐るべき罪人である自分自身の真実を知らなければならないのだと。