贖いとは

贖いとはどのようなことで、そのためには何が必要なのでしょうか。

コリント人への手紙第一に「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」(6章19,20節) とあります。
 
贖いとは「身代金の代価を払って買い取る」ということです。

この「身代金」の意味が重要です。
人質をとって身代金を要求するという事件を耳にすることがありますが、人質は捕らわれの身とされており、身代金が払われたら解放され、自由にされるわけです。

それでは、私たち人間は何から贖われる必要があるのでしょうか。

私たち人間は、律法の下から贖われる必要があります。
「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」 (ガラテヤ人への手紙4章4,5節)

律法は私たちを罪に定め、刑罰を要求します。その刑罰は死です。
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」(コリント人への手紙第一15章56節)

神の律法は良いものであり、この律法を守ることができたら人間社会に問題が生じることなどないことを、誰もが認めるでしょう。しかし人間にこの律法を守ることなどできないと、馬鹿馬鹿しいとさえ思えるものです。そして罪ある人間はむしろ、してはいけないと言われるとしたくなるものです。「では、この良いものが、私に死をもたしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死もたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。」(ローマ人の手紙7章13節)

人間は自分自身の行ないの良さ、善行を積むことによって認められようとします。
律法の下にある人間は、自分自身の行ないによって神に義と認められるように努力しなければなりません。
しかし「…律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められない」のです。
「律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ人への手紙3章20節)

律法の下にいるならば、罪に定められたままであり、行き着くところは死です。


また、[私たち人間は何から救われる必要があるのでしょうか②]で確認した通り、生まれながらの私たちは、罪の支配、悪魔の支配に置かれ、その奴隷、その所有物とされています。ですから、そこから贖われる必要があります。

しかし罪人である私たちには十分な代価を払うことはできません。神さまご自身が、身代金の代価を払って私たちを買い取ってくださる、あるいは買い戻してくださるのです。律法の下から、罪の支配、悪魔の支配から解放してくださり、神さまのものとしてくださるのです。

そのために何が 必要であるのか、すなわち【身代金の代価とは何か】については、[贖いのために必要なものの中で確認します。

※ 聖書引用「聖書 新改訳第三版」(新日本聖書刊行会)より

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