福音の真偽について

ここでは、福音の真偽について、つまり、真の福音と偽りの福音について見分ける方法を、D・M・ロイドジョンズ博士による説教集からの言葉を抜き出し、確認していきます。


【この世の何よりも愚かな、あるいは、自己矛盾した態度は、キリスト者が教理になど興味ありませんと言うことである。そのような人は、もっともらしい装いをした教えがやって来て、あれこれと偽の祝福を差し出すたびに、そのえじきになる運命にある。疑うことを知らない無知なキリスト者は、ある説教者が少しでも《十字架》について話をしていさえすれば万事問題ないと思うことが多い。だが大切なのは、説教者が《十字架》について話をするかどうかではなく、《十字架》について何を話すかである。世の中には十字架を装身具にしている人々がたくさんいるが、問題は、そのような人々が《十字架》について何を信じているか、キリストの死についてどのような教理を受け入れているかである。】

『ロイドジョンズ ローマ書講解8:17-39 聖徒の最終的堅忍』[31 神のみわざは揺るぎない] (D・M・ロイドジョンズ著 渡部謙一 訳 いのちのことば社)より


【・・・福音伝道の本質は、単に十字架を語ることではなくて、十字架の真の教理を宣言することである。十字架を語る人の中に、ただ純然たる感傷的な言い方で語っている人がいる。彼らはエルサレムの女たちのようである。主ご自身彼女らを叱った。彼女らが十字架の悲劇と呼んでいたもののことを考えて、泣いていたからであった(参照 ルカ23:27-31)。これは、正しい十字架の見方ではない。十字架を、一種の道徳的影響力を私たちに及ぼすものと考える人がいる。十字架の目的は私たちの固い心を打ち破ることであると彼らは言う。けれどもこれは、十字架についての聖書の教えではない。十字架の目的は、私たちの心にあわれみを呼びさますことではなく、また、単に神の愛を一般的に掲げて見せることではない。十字架は、究極的には、律法という面からのみ理解される。十字架上で進行していたのは、主、救い主イエス・キリスト、神の御子が、人の罪のために、神の神聖な律法に規定された刑罰を、ご自身の聖なるからだで受けたということであった。律法は罪をさばく。そして、律法が宣告するさばきは死である。「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)。律法は、だれでも神に罪を犯した者、神の神聖な律法を破った者には、死が科せられなければならないと宣告する。キリストは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」と言う。律法が成就されなければならない一つの点は、律法の定める罪の刑罰が施行されるということである。この刑罰が死である。だからこそ、主イエスは死んだのである。律法は成就されなければならない。神は、いかなる点においても律法を無視することはできないのであるから、罪の刑罰も無視することはできないのである。神は私たちをゆるして下さる際に ―十分明確に言おうではないか― すでにご自身が宣告している刑罰をきびしく執行することはしないと決めて、ゆるして下さるのではない。そんなことをすれば、神の聖なる性質と矛盾することになる。神が語ることは、なんでも実現されなければならない。神は、罪は死によってさばかれなければならないし、さらに、あなたや私がゆるされるのは、このように刑罰が執行された場合だけであると言う。こうして、律法による罪の刑罰という面に関しては、神の律法は絶対的に成就している。なぜなら、神は、カルバリの丘の十字架上で、神ご自身の御子のしみもきずもないからだにおいて、罪を処罰したからである。キリストは、十字架上で律法を成就した。したがって、律法の成就という厳密な面から、十字架と十字架上のキリストの死を解釈しないかぎり、十字架上の死について聖書的な見方をしているとは言えない。

『山上の説教』[18 律法と預言者を成就するキリスト](D・M・ロイドジョンズ 著 井戸垣彰 訳 いのちのことば社) より


【・・・伝道の本質は、律法を説くことから出発する。今まで、皮相的伝道があまりにも多く行われてきた原因は、律法が説かれなかったことにある。主ご自身の宣教を見てみよう。主は、ご自身に従い、ご自身を受け入れるように決心せよと民に勧めるどころか、かえって、民にとって障害となるようなことさえもしばしば述べているという印象を受ける。「あなたは自分のしようとしていることがわかっているのか。犠牲を計算したか。その結果がどうなるかわかっているのか。私に従うとは、自分自身を否定し、日々あなたの十字架を負って私に従って来ることだということを知っているか」(参照 ルカ9:23)と主は語っている。真の伝道は、この罪の教理の重要さを考えると、常に律法を説くことから出発しなければならないことがわかる。つまりこのことは、次のことを意味している。私たちは、人類が、神のきよさ、神の要求、罪の結果と対決させられているという事実を、説明しなければならないのである。地獄に投げ込まれるという事実について語っているのは、実に神の御子ご自身である。地獄の教理などきらいであると言うなら、あなたは、イエス・キリストと異なった意見を持っていることになる。神の御子のキリストは、地獄を信じている。そしてキリストは、罪の真の性質を暴露した中で、罪こそ人を究極的に地獄に陥れるものだということを、教えている(参照 ルカ16:14-31)。したがって伝道は、神のきよさから、人の罪深さから、律法の要求から、律法が科している刑罰から、邪悪と悪事の永遠の結末から、出発しなければならない。救いと贖いを求めてキリストのみもとに飛び込んで行くのは、このようにして自分の罪過を知るに至った人だけである。ここに基礎を置かない主イエス・キリストに対する信仰は、どんなものであっても、真のキリストへの信仰ではない。あなたは、心理学的信仰というものを、主イエス・キリストに対してさえいだくことができる。しかし、真の信仰は、私たちを律法の呪いから解放して下さる方を、主の中に見いだす。こうして、真の伝道は出発する。そしてそれは、明らかに、まず第一に、悔い改めへの呼びかけである。「神に対する悔改めと、私たちの主イエスに対する信仰」(使徒20:21)である。

『山上の説教』[22 罪のはなはだしい悪性](D・M・ロイドジョンズ 著 井戸垣彰 訳 いのちのことば社) より


【《十字架》は、私たちに感化を与えるためだけのものではない。しかし、それこそ、いま人気のある教えが私たちに告げることである。その教えは言う。人類の問題点は、神が愛であると知らないことにあります。神がすでに万人を赦しておられることを知らないことにあります。《十字架》にはいかなる意味があるのだろうか。よろしい、とそうした人々は言う。そこで神は、ご自分が私たちをすでに赦していると告げておられるのです。ですから、キリストが死につつある姿を見るとき、そのことによって私たちの心は砕かれ、それを見てとらされるべきです、と。この人々によると、《十字架》は、ただ私たちに対してのみ向けられている。確かに《十字架》は私たちに語りかける。だが、そこには、それよりずっと壮大な目的がある。それは、このもう一つのことをも行なうのである。

 私たちの赦しは、事の一部でしかない。それより無限に重要なことがある。何だろうか。神のご性格である。だから、《十字架》は引き続き私たちに告げるのである。これこそ、赦しを可能にする神の道なのだ、と。赦しは、神にとって容易なことではない。私は畏敬の念とともに語っている。なぜ赦しが神にとって容易なことではないのか。それは、神が愛であるばかりではないからである。神は正義であり、義であり、聖でもあられる。神は「光であって、神のうちには暗いところが少しもない」[Ⅰヨハ1:5]。神は、愛であるのと同じくらい、義であり、正義であられる。私は、こうした属性を互いに対立させているのではない。神が、こうした一切のものを合わせたお方であると言っているのである。そして、そのいずれも省いてはならないのである。

 だから、《十字架》は、単に神がお赦しになると告げるばかりではない。それが赦しを可能にする神の道であるとも告げている。このようなしかたでこそ、神がいかにしてお赦しになれるかは理解できるのである。さらに踏み込んで言おう。いかにして神は赦しながらも、なお神でいられるのだろうか。―それが問題である。《十字架》によって神は身の証を立てておられる。そのご性格に非の打ち所がないとの証を立てておられる。《十字架》は、単に他の何にもまして栄光に富むしかたで神の愛を示すだけではない。神の義、神の正義、神の聖、そして神の一切の属性の、その永遠の栄光を示す。そのすべてが十字架から輝き出ているのが見える。それが何も見てとれないという人は、まだ《十字架》を見てとっていないのである。だからこそ、いわゆる《贖罪》の「道徳感化説」は完全に拒絶しなくてはならない。それは、いま描写したばかりのもの ―《十字架》が行なうのは、私たちの心を砕き、私たちに神の愛を見てとらせることだけでしかないと言う説である。】

【そうした一切に加えて、パウロはこう言う。「それは、ご自身の義を現すためです。というのは、過去のもろもろの罪を赦して来られたからです」。もしも十字架が単に神の愛を現わすだけのものでしかないなら、なぜこう言うのか。否、とパウロは言う。十字架はそれ以上のものである。もしそれが神の赦しを宣告するだけのものであったとしたら、私たちにはこう尋ねる資格があるであろう。果たして神のことばなど当てになるだろうか。果たして神は、義や正義であられるのだろうか、と。それは公正な疑問であろう。なぜなら、神は旧約聖書の中で何度となく言明して来られたからである。ご自分が罪を憎むこと、いずれ罪を罰すること、そして、罪の報酬は死であることを。ここには神のご性格が関わっている。神は人間のようではない。時として私たちは、人がいったんあることを言っておきながら、全く他のことを行なうのを素晴らしいと思うことがある。親は子どもに向かってこう言う。「もしお前がこれこれのことをしたら、お菓子代の六ペンスはやらないよ。」それから、その子がそのことをしでかす。だが、父親は言う。「まあ、大したことじゃない」。そして、子どもに六ペンスを与えるのである。私たちの考えでは、それが愛である。真の赦しである。しかし、神はそのようなしかたではふるまわれない。神は、もしこういう言い方をして良ければ、永遠に言行一致しておられる。そこに決して矛盾はない。神は、「光を造られた父」であり、「移り変わりや、移り行く影はありません」[ヤコ1:17]。こうした栄光に富む属性は、ことごとく神の永遠のご性格の中で金剛石のように輝いて見えるべきである。そして、そのすべてが如実に現われなくてはならない。《十字架》において、それらはみな現わされている。

 いかにして神は義であり、なおかつ、不敬虔な者を義と認めることがおできになるのだろうか。答えはこうである。神がそうできるのは、不敬虔な罪人たちのもろもろの罪を、ご自身の御子においてすでに罰されたからである。神は御子の上にご自分の怒りを注ぎ出された。「彼は私たちの懲らしめを負った」。「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」[イザ53:5参照]。神は、行なうと言ったことを行なわれた。罪を罰された。神は、旧約聖書の至る所でこのことを宣告された。そして、行なうと言ったことを行なわれた。ご自分が義であることを示された。公に現わされた。神は義であり、かつ、義と認めることがおできになる。なぜなら、私たちに代わって《別のお方》をすでに罰されたからである。神は私たちを価なしに赦すことがおできになる。そして、そうされる。それが24節の使信である。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖い(身代金の支払いによる受け戻し)のゆえに、価なしに義と認められる(義とみなされ、宣言され、表明される)のです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました」。このようにして、神は、ご自分が自制していた時期に、そうしたもろもろの罪を見過ごして来たことについて、ご自分の義を現わされるのである。「それは」、当時も、今も、いついかなるときも、一切の罪を赦すことについて、「ご自身の義を現すため・・・なのです」。このようにして神は、義であると全く同時に、イエスを信じる者を義とお認めになるのである。

『ロイドジョンズ ローマ書講解3:20-4:25 贖罪と義認』[7 身の証を立てる神] (D・M・ロイドジョンズ 著 渡部謙一 訳 いのちのことば社) より


【《律法》の第一の機能は、神の完全で、絶対的で、言語に絶する聖さと義とを私たちに対して明らかにすることである。さて、それをこの世の何にもまして明々白々に示すものは、《十字架》の上で起こったことである。そして、もし私たちが《十字架》の中に真っ先に見てとることが、神の聖さと義との現われでないとしたら、真の意味では《十字架》を見てとっていないのである。《十字架》は、そのようなしかたで《律法》を確立する。そのことを明示する。】

【第二に《十字架》は、そのことを次のように行なう。それは、神が、罪に対するご自分の聖なる怒りについて、すでにご自分の律法の中で語っておられた一切のことを確証する。神は、その《律法》において語っておられた。ご自分が罪を憎まれることを。罪が、ご自分の聖なる怒りをかき立てることを。そして、ご自分がいずれ確実きわまりないしかたで、罪を罰するに違いないことを。・・・神は、その《律法》の中で明確に断言された。ご自分は確かに罪を、また、罪を犯すすべての者を罰するであろう、と。このローマ書三章に記されている一切のことは、このことを最も驚くばかりのしかたで明らかにしている。歴史始まって以来の何にもまして ―また、人類が辿ってきた物語の中のいかなる点にもまして―また、宇宙のいかなる場所にもまして― 罪に対する神の怒りを明らかに示し、罪に対する神の嫌悪、罪を罰そうとする神の決意を明らかに示しているのは、《十字架》上における私たちの主の死にほかならない。そのことは、「なだめの供え物」という言葉を考察した際、すでに詳しく見てきた。その言葉は、神の怒りを明らかにしている。そして、《律法》を確立したければ、神の怒りと、それが罪の上に注ぎ出されることを示すしかない。神は、行なうと言ったことを行なわれた。そして、そうすることで、この救いの道は《律法》を確立するのである。しかし、なだめの供え物を除き去るような「救いの道」は、《律法》を確立することがなく、それゆえ、真の道ではありえない。】

【やはりまた、この救いの道は、《律法》が罪と私たちの罪深さについて語っていた一切のことを確証する。《律法》の務めは、パウロがすでに告げた通り、このことにある。「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められない・・・。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」(ロマ3:20)。「私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです」(ロマ3:19)。《十字架》は、そう言っているだろうか。言っていないとしたら、《律法》を確立していないことになる。しかし、それはそう言っている!《十字架》が言っていることは、こうである。それ以外の何物によっても、決して魂は救われることができないのだ。すべての人は失われ、無力であり、望みがないのだ。《十字架》は、そう宣言している。もし私たちの《十字架》観がそう宣言していないとしたら、もう一度言うが、それは偽りに違いない。そして、そこにおいて、すでに私は、第四の点に言及してしまったことになる。すなわち、それは、私たちの全くの無能力、私たちの完全な無力さと望みなさをも確証する。】

【そこから第五の点に至るが、・・・モーセを通して与えられた《律法》には、全焼のいけにえや種々の犠牲に関するおびただしい数の教えが記されており、《大祭司》が一年に一度、《幕屋》あるいは《神殿》の《至聖所》の中に入り、そこに血を ―雄牛と山羊の血を― 携えて行き、ささげるべきであると書かれている。大祭司は、民のためにいけにえをささげるべきであった。こうしたすべては何を意味しているのだろうか。パウロによれば、この救いの道は、そうした犠牲や儀式の意味を私たちに示しているのであり、それゆえ、それらを確立しているのである。それゆえ、それらを命じている《律法》を確立しているのである。この道の示すところ、こうした様々な犠牲や儀式は神によって与えられた種々の型であった。神はそれらを用いて、やがて来たるべき唯一無二の救いの道 ―大いなる《原型》― について教えておられたのである。キリストは、《十字架》上で死ぬことによって、そうしたレビ記的な《祭儀律法》を、また、それが予表していたすべてを、完璧に成就された。主は《律法》のこの面を確立するために、ご自分のたましいを罪のためのいけにえとしておささげになった。主こそ「世の罪を取り除く神の小羊」[ヨハ1:29]であった。】

【第六に、この、なだめの供え物としてのキリストによる救いが、やはり《律法》の言葉を確証し、確立することになるのは、キリストの血を信じる信仰によるその救いが、一つの真理を確証するからである。すなわち、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」[ヘブ9:22]という真理である。先に見たように、現代流行している多くの《贖罪》観は、この「血」を徹底して嫌っている。しかし、神ご自身は《律法》の中ではっきり示しておられた。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」と。それゆえ、この救いの道がそのことを確証し、そのことを確立しない限り、矛盾があることになる。しかし、この道はそれを確証する。私が《十字架》を眺めるとき、また、「裂かれし脇より流るる血と水」を眺めるとき、そこに見てとるのは、―「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」ということにほかならない。《律法》をあらゆる点で確立するのは、使徒がここで教えている《贖罪》観である。―だが、それ以外にはない。】

【私たちは、ここで教えられているように《贖罪》を眺めるときにのみ、神の《律法》を真に霊的なしかたでとらえることになる。これを抜きにすると、私たちは《律法》を、種々の特定の行動や、行為や、私たちが行なったり行なわずにすませたりする様々な事がらに即して考えることになるであろう。しかし、《律法》はそれよりもずっと大きい。それは本質的に霊的なものであり、その目指すところは、私たちが、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、私たちの神である主を愛」するような者となることに尽きる[マコ12:30参照]。律法は霊的で人格的なものであり、それは、私たちの主によって示されたその要約のうちに見てとれる。肝心なのは神と私の関係であって、単に私の道徳や、私のふるまいだけのことではない。しかり。神と私の関係すべてである。そして、そのようなしかたでこのことを見てとることによって、私の内側には自分でも《律法》を守り、それを遵守したいという願いが生じる。キリストが死なれたのは、ペテロがその第一の手紙で教えているように、「私たちを神のみもとに導くため」[3:18]であった。単なる赦しではなく、壊れた人格的関係の回復である。】

【こうしたことが、この救いの道によって《律法》が確立され、掲げ上げられ、誉れを帰されるしかた ―その、主立ったしかた― である。もう一度言うが、こうした特定の要素一つ一つを明らかにしないような《十字架》観は誤っており、偽りであり、拒否されるべきである。私たちはこうした件において、明敏な識別力を働かせなくてはならない。感傷的な気分になって、次のように言う人々の言葉を信じてはならない。「あゝ、《十字架》の使信はこうです。そこで、神の御子は人々によって十字架につけられています。ですが、この方は《十字架》の上から、また、そのすさまじい苦悶の中からこう言われるのです。『わたしは、それでもあなたを愛しているのだ。これほどのことを行なうあなたをも、わたしは喜んで赦そう』」。もしそれを《十字架》の本当の意味だとして受け入れるとしたら、あなたは使徒の教えを否定しているのである。そこには何の「血」もない。何の《律法》を「確立する」こともない。《律法》に関して旧約聖書の中に見いだされる ―そして、実際、新約聖書の中にも見いだされる― こうした大いなる事がらすべてに関する説明が何もない。私たちの《贖罪》理解においては、是が非でも、こうしたすべての点を常にはっきり明白にするようにしなくてはならない。こうした《贖罪》理解だけが、神のご性格の表われたる、その聖なる《律法》がいかに真実で、神聖で、侵すべからざるものであるかを示すのである。】

『ロイドジョンズ ローマ書講解3:20-4:25 贖罪と義認』[10 確立された律法] (D・M・ロイドジョンズ 著 渡部謙一 訳 いのちのことば社)より


【スポルジョンがよく言っていたことだが、次第に私も彼の格言の正しさを確信するようになってきている。つまり人が本当に福音を宣べ伝えているか、いないかを調べる最後的な方法は、その人が「キリストの血」ということに強調点を置いているかどうかに注意することであると。十字架とその死について語るだけでは十分でない。

 テストは「キリストの血」である。「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今では、・・・キリストの血によって近い者とされたのです。」キリストの死と、キリストの十字架によって罪人が近づけられることに同意はするが、どのようにしてかという説明などには、飽きてしまう人々がいることを知っている。そういった人たちは、人間が御子を十字架にかけて殺したにもかかわらず、人間を赦される偉大な神の愛が示されていると見ている。彼らは次のように言う。神は決定的な敗北からなおも勝利された。だからそのようなことをなさる神をあなたは信頼することができる。それが死と十字架についての彼らの解釈である。そこにはキリストの血は入ってこない。

 しかしパウロは、救いはキリストの血によると言う。そしてヘブル人への手紙の記者も同じことを言っている。まず第一に重要なことはキリストの血である。そしてこの理由から、主イエス・キリストが「世の罪を取り除く神の小羊」なのである。犠牲や贖いという観点からすれば「その血」が必要である。もし人々が贖いを宣べ伝えなければ、本当にはキリストの死を伝えていることにならない。「血」がキリストの死を犠牲と贖いとに結びつけるのである。

 人の罪は動物の頭の上に象徴的に置かれて、その動物がほふられる。そのからだは焼かれ、それから血が捧げられる。キリストは「世の罪を取り除く神の小羊である」。人の罪はキリストの上に負わされ、その罪はキリストにあって取り除かれた。キリストはその罪のために打たれ、その血が注がれたのである。これが私たちが入ることができる道である。「キリストは私たちの罪を十字架の上でご自身の身に負ってくださった」のである。これが私たちが入ることができる道である。「キリストは私たちの罪を十字架の上でご自身の身に負ってくださった」のである。ここから始めなければならない。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない。」旧約聖書を放り出すことはできないのである。教会、つまり初代教会は、聖霊に導かれて、旧約聖書を保持し、新しい文書とそれを調和させてきた。なぜなら旧約聖書はその教えにおいて不可欠の部分だからである。この捧げものや犠牲がなければ、神が人を赦し、また扱っていくことがおできにならないことを教えられたのは、神ご自身である。

 したがって「キリストの血」を中心に持って来ない見方や、またそれが絶対に必要とされないようなキリストの十字架と死に関するどのような見方も、十字架を誤って示しているものである。キリストは私たちの罪を負ってくださるお方である。このお方がカルバリの丘の上で、私たちの罪のための裁きを受けて、死んでくださった。義であり聖なる神は罪を罰しなければならなかった。そして神はその上で罪を罰せられたのである。神の義と正義、そして罪を罰することの絶対的必要性を語らずに十字架を宣べ伝えることは、キリストの死の教理についての、完全に間違った示し方である。まさにここにこそ、道が私たちに開かれているのである。「キリストの血によって」、「キリストのからだによって」、「キリストの死によって」。これらはどこででも繰り返し語られなければならない。これが新約聖書の中心的主題である。

 黙示録まで読み続けよ。そうすれば白い衣で着飾った人々が「小羊の血で洗って白く」されたと言われているのが分かるであろう。「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放」ってくださった。それはどこにあってもである。すべてのものの内で最も素晴らしいこのことを抜きにして、人が神に近づくことをどのように説明できるのだろうか。これは、神の御子が私たちの罪のために律法に従って、父なる神によって死に渡され、そしてそのことによって私たちは和解させられたということである。

『神との和解、人との平和(エペソ2書講解)』[10 主よ。祈ることを教えてください] (D・M・ロイドジョンズ 著 松元保羅 訳 いのちのことば社)より

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