イエス・キリストを信じるとは

自分をクリスチャンだという人は、イエス・キリストを信じていると言います。

それでは、イエス・キリストの何を信じているのでしょうか。

イエス・キリストは、神の御子であられます。三位一体の二位格なる神であられます。

子なる神イエス・キリストは、人類を救うため、完全な人となられました。完全な神であられ、完全な人となられました(二性一人格)。
人を救う救い主は、完全な人とならなければなりませんでした。人の身代わりは、人でなければならないからです。旧約時代に、いけにえとしてささげられていた動物では不完全でした。
人でなければならないのですが、生まれながらに罪人であるすべての人間は、罪人の身代わりとなることはできません。身代わりとなるいけにえは、罪のない、傷も汚れもない、完璧な人でなければなりません。アダムにあるすべての人間は、誰一人身代わりのいけにえとなることはできません。身代わりになることができるのは、神以外に存在しません。確実に救いのみわざ、贖いのみわざを成し遂げることがおできになるのは、神であられるお方以外に存在しません。 
ですから、神であられるイエス・キリストが、完全な人となってこの世に遣わされました。

イエス・キリストは、人として、聖霊によってみごもった処女マリアからお生まれになりました。
救い主イエス・キリストは、女性から生まれるところから、人としての生涯を歩まれる必要がありました。
それで、聖霊によってみごもった処女マリアから、お生まれになりました。
イエス・キリストは、第二の人、最後のアダムと言われている、人類の代表者です。
最初の人アダムも、人類の代表者でした。 ですから、人類というのはアダムにあるか(罪の中にあるか)、キリストにあるか(いのちにあるか)のどちらかです。
この最後のアダムである人類の代表者イエス・キリストが、ヨセフによってではなく、聖霊なる神さまによってみごもった処女マリアからお生まれになりました。処女でなければならなかったのは、聖なるお方、人として聖なる存在でなければ、完璧ないけにえとはなれなかったからです。

イエス・キリストは、完全な人として、父なる神さまに完全に従われる生涯を送られました。
神の律法の一点一画も完全に落ち度なく、一つも罪を犯されることなく、律法に服従されました。十字架の死にまでも従われました (ピリピ人への手紙2章8節)。
まことのいけにえとして、私たちのすべての罪を負われ、身代わりに神さまの御怒りとさばきを受けられ、完全に死なれました。

イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架につけられて死に渡され、墓に葬られました。
完全に死んだ者でなければ、墓に葬るということはしません。墓に葬られるということは、確かに死んだということを証明するものでした。 
イエス・キリストは、墓に葬られ、陰府に下りました。
ウエストミンスター信仰基準にある言葉をそのまま引用すると、「三日目まで死者の状態にあって死の力の下にとどまっていた」、「すなわち「陰府に下った」という言葉で従来表明されていたこと」、これは「キリストの死後の低い状態は、どの点にあったか」という問に対しての答えになります。使徒信条にある「葬られ、陰府に下り」というところ、「キリストの死後の低い状態」は、そのような点にあったということです。 

イエス・キリストは、完全に死なれてから三日目に死者の中から復活されました。
重要なのは、からだをもって復活された事実です。
人間にとって「からだ」は大事なものです。なぜなら、神さまが人間をからだをもつ存在としてお造りくださったからです。そして、最終的には私たちのからだも贖われ、栄化されます。それこそ、完全な贖い、完全な救いです。
イエス・キリストがからだをもってよみがえられなかったならば、完全な救いは不可能なこととなります。

イエス・キリストは、復活されてから四十日目に昇天され、神さまの右の座に着かれました。
すべてのご主権が、父なる神さまに完璧に従われた御子イエス・キリストに渡されました。
主イエス・キリストは、もう一度この世に来臨されます。そして、さばき主として最後の審判の際に私たちすべての人間をさばかれます。

イエス・キリストは主であられます。主というのは、「神性の呼称」です。
イエス・キリストは、まことの神であられます。 

これらのことを、漠然とではなく、どのような意味をもっているのかを知り、信じる必要があります。
意味もわからないことを、信じることはできないからです。
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