【失望しないで】について

「霊とまことによる礼拝」

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」ヨハネの福音書4章24節

著書【失望しないで ー求め続けるべき神の祝福ー】の中に記した解釈に混乱のあるこの箇所について、さらにここに補足内容を記したいと思います。

まず、ヨハネの福音書3章の、ユダヤ人指導者であり、パリサイ人であったニコデモという人に対する主イエス・キリストのお取り扱いを吟味したいと思います。

「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。...」」(ヨハネの福音書3:1-3)

ニコデモの態度を見ると、この人物はイエス・キリストをそれなりに認めているように見えます。後のヨハネの福音書7章の最後の方では、パリサイ人たちの中で、イエス・キリストについて擁護するような発言も見られますし、19章39節にはイエス・キリストが十字架につけられて死なれた際、没薬とアロエを混ぜ合わせたものを三十キロばかり持って来たことも記されています。

このヨハネの福音書三章で、先のように言ったニコデモに対し、主はきっぱりと「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3:3) と言われます。

ユダヤ人指導者であったパリサイ人のニコデモには、本質的な問題がありました。それは、新しく生まれていなかったことです。その証拠として、「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」(3:4) などと、笑ってしまうようなことを言います。もちろんニコデモは、いたって真剣です。

主は、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くのかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(3:5-8) と答えられます。ここで主が話されていることは、決定的に重要な事柄です。

「御霊」は、三位一体の三位格なる神です。「新しく生まれる」は「上から生まれる」とも言えますし、「再び生まれる」とも言われます。いずれにしても「神から生まれる」ということです。

「水」については、何を意味しているのか様々な見解があります。「バプテスマ」、「神のことば」、「悔い改め」、「御霊」等の見解です。ここの文脈を見ると、主は霊的な事柄について話しているのですが、ニコデモはあくまでも肉的な意味でしか捉えることができていません。ユダヤ人は「水」というと「羊水」を連想したそうです。主のことばを肉的にしか考えることができていないニコデモが言ったことに対し、主は霊的な事柄について語られています。神のことば自体が霊的なものであり、御霊によって生まれ「霊」とされなければ、その真意はわからないのです。Ⅰペテロの手紙 1章23節には「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです」とあります。そのようなことから、私は「神のことば」を意味しているという見解をとっています。

「肉」について、ここで言われていることは、どういうことでしょうか。ジョナサン・エドワーズの【原罪論】(新教出版社) に「本性全体が腐敗している人」、「堕落し、罪のある、破滅した人間であり、まったく神の国に入るのに相応しくない者であり、神の国の神聖な幸福を味わうことのできない者」(第三章 第一節「ヨハネによる福音書」三章六節と新約聖書の関連箇所の考察 より) とあるとおりです。

そのような「肉」に対して「霊」と言われているところには「きよさ」ということが含まれています。

新しく生まれる (再び生まれる)、「新生 (再生)」ということは、御霊なる神による内側で行われる神秘的なみわざです。私たちがどうにかしてできることではありません。私たちとしては、目には見えない何らかの働きが自分の内側でなされ、どのようにしてかはわからないけれども変えられたことがわかる、というものであることを、主は語られており、実際にそうです。そして御霊によって生まれ、「霊」とされて、霊的な神の国のことを知ることができるのです。あるいは悪魔も霊的な存在なので、「霊」とされなければ悪魔の存在、その働きを知ることもできません。しかしもちろん悪魔は、いのちを与えることはできません。悪魔が行うことは真反対のことです。

「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。」と言ったものの、ニコデモはイエス・キリストが誰なのか、どのようなお方なのか、全くわかってはいなかったのです。主は、イスラエルの教師でありながら主の言われていることがさっぱりわからないニコデモをお責めになりながらも、夜にご自身のもとに訪ねて来た彼に、いのちのことばを語り続けてくださり、お取り扱いくださいました。

長年、ユダヤ人の指導者として生きてきたニコデモを、根本からお取り扱いくださる主イエス・キリスト、何と真実なお方でしょうか。

それでは、異邦人に対してはどうでしょうか。著書に記した内容の補足として、続けて記していきます。

「...イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」」

                             ヨハネの福音書4章21-24節

かつて、神の民イスラエルは、奴隷とされていたエジプトから神によって救い出され、神との契約関係に入れさせられました。イスラエルの民以外は、その契約関係に入ることはできませんでした。これらの旧約時代の出来事は、イエス・キリストによる救いの全貌が外的な形であらわされていたものです。

さて、異邦人にも及ぶ救いについては、旧約時代から語られてきています。そしてイエス・キリストご自身が十字架への道を歩まれていた生涯の中で、異邦人をも取り扱われていた場面を見ることができます。その場面の中の一つであるこのサマリヤの女に対するイエス・キリストのお取り扱いについて吟味したいと思います。

ここでイエス・キリストは、サマリヤの女を三章のニコデモと同じように取り扱われているわけですが、3章のニコデモとこのサマリヤの女は様々な意味で対照的でした。
ニコデモは神の民であるユダヤ人の、しかも堂々と人前に出ていた指導者でありましたが、対するサマリヤの女は異邦人とみなされていた、しかも人前に出ることを避けなければならないような人生を送ってきた女性でした。ニコデモは自分からイエス・キリストのみもとに来ましたが、サマリヤの女はイエス・キリストの方から話しかけられました。ニコデモもサマリヤの女も、この際、人の目につかない時間帯にこっそりと行動を取っていたところは共通しています。

イエス・キリストは、この二人に対して同じように新しく生まれなければならないことを語られていますが、神の民とされていたユダヤ人とは異なり、異邦人に対してはご自身による異邦人にも及ぶ救いについて言及する必要がありました。そこで、サマリヤの女が持ち出した礼拝の話題に沿って、そのことを言及されながら話を展開していかれました。その箇所を見たいと思います。「女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」」(ヨハネの福音書4:19-24)

混乱が見られるのは、この「霊とまことによる礼拝」についてであり、そのことばによって、"「霊とまことによる礼拝」とは、どのような礼拝なのだろうか"などと、礼拝学的な見地へ意識が向かっていくために、ここでイエス・キリストがサマリヤの女に対してなさっていることを忘れてしまうところに混乱の原因があります。イエス・キリストがなさっていることは、異邦人サマリヤの女を救うことです。礼拝学を教えることではありません。

そのことを念頭に置いて解釈するならば、サマリヤの女が持ち出した「礼拝」について、主イエス・キリストは、まず唯一まことの神を礼拝できる者とされなければならない、イエス・キリストを知り、礼拝する対象のお方であられる神を知らなければならない、ということ、つまり、新しく生まれなければならない、と言われているに違いありません。それはまた、「神は霊ですから」と主が言われていることからも明らかです。ニコデモに対するお取り扱いを振り返ります。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネの福音書3:3)、「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(3:6)。本質的に肉のままでは礼拝することはできません。御霊によって霊とされなければならないのです。

ここでの意味は、「神は霊ですから、霊とまことでの礼拝者が礼拝しなければならない。」であるはずです。「どのような礼拝を行なわなければならないか」ではなく、「神を礼拝する礼拝者はどのような者でなければならないのか」というのが、『サマリヤの女を救いに導くイエス・キリストのお取り扱い』というここでのテーマの中でイエス・キリストが話されていることに違いないからです。

著書の中にも記した通り、「まこと」と訳されている「アレテイア」ということばは「真実さ」という意味があり、ヨハネは「イエス・キリストに啓示されている神の真実さ」という意味で用いています。

「霊とまこと」についてもう少し見ていきます。

「神は霊ですから」という「霊」については、あらゆることが言えます。無限性、不変性、統一性...等は、神ご自身のみがお持ちであられる絶対的な本質です。ここで「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」と言われていることは、霊的に死んでおり、神との関係が切り離された人間に対して霊が生かされなければならないということです。さらに、3章にある「肉によって生まれた者は肉です」という「肉」との対比を考えるならば、「罪の中に生まれてきた人間」、「生まれながらの罪人である人間」が、本質的に「罪深く、汚れにまみれて、徹底的に腐敗している」ことに対し「御霊によって生まれた、神から生まれた者」は、本質的に「新しい人」であり、「きよい」ということが言えます。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(3:3)。主イエス・キリストご自身が山上の説教の中でも「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから」(マタイの福音書5:8)と言われています。

「霊とまこと」の「まこと」について見ていきます。なぜここで「神は霊ですから」という根拠から「霊と『まこと』によって」と、主は言われたのでしょうか。よく知られているように「まこと」と訳される「アレテイア」ということばは、ヨハネが非常に好んで使っていることばです。ここでこのことばを「真実さ」(「イエス・キリストに啓示されている神の真実さ」)と言われていることに対し、ヨハネの福音書8章44節で、主が、自分たちはアブラハムの子孫であると言うユダヤ人たちに対して、「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」ということと対比されます。同じヨハネによるⅠヨハネの手紙には、「...神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。」(5:10)とあります。

悪魔は、偽りの父であり、生まれながらの人間は、偽りの父に目をくらまされ、神を否定し、神を偽り者としています。父なる神の真実さとこの世の神である悪魔の偽りの対比がなされていること、「罪(肉)と悪魔(偽り)」の中にあり、それそのものである生まれながらの人間と、「霊とまこと」という神から生まれた者との対比されていることが伺えます。

ヘブル人への手紙1章3節の「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました」というみことばを思い浮かべるかもしれません。

ジャン・カルヴァンは「キリスト教綱要 第1篇 第13章 聖書においては 神の本質が唯一であって それが三つの位格のうちに含まれる と創造のとき以来 教えられている」で、この箇所にあるギリシア語の「ヒュポスタシス」ということばを「本質」の意味にとる(新改訳2017 では脚注に「実体の刻印」と記されている) のは、「単に粗野な言い方であるにとどまらず、また、矛盾したことになる」と言っています。続けて「神の本質は単一・不可分であるから、そのうちにいっさいが包含され、しかもそれを部分的に持つのでも・派生的に持つのでもなく、全く完全に包含したもう御かたが、神の本質の「(かたち・また)しるし」といわれるのは、不適当であり・実に愚劣である。しかし、御父はその固有性においては御子と区別されているが、御自身を全く御子においてあらわしたもうたのであるから、御父の「ヒュポスタシス」が御子において明らかにされた、と言われることは、最も根拠のたしかな言いかたである。これは、すぐあとにつけ加えられる「御子は御父の栄光の輝きである」という句と、ぴったり一致する。そういうわけで、われわれは、この使徒のことばによって、御父のうちには固有の「ヒュポスタシス」があり、それが御子において輝き出る、ということを確実に結論するのである。」と記しています。本質は一つであられ、御父も御子も御霊も本質そのものを完全にお持ちのお方ですので、その「かたち」や「しるし」のような表現は、確かに愚劣なものであり、三位一体の教理を否定し兼ねないと思います。固有である三つの位格の御父の位格が御子においてあらわされた、というのが適切です。アウグスティヌスなどが、ラテン語においては、「ヒュポスタシス」を「ペルソナ」と訳したこともカルヴァンは記しており、それがここでの意味であるはずです。

私がこの著書の中で「礼拝の本質」、「礼拝者の本質」という言葉を用いたのは、当然ながら神ご自身と同じようになるという意味ではありません。あえて記しておきますと、神のようになろうとして堕落した天使とその誘惑の言葉に耳を貸して堕落したエバが陥ったその意味ではありません。「本質が同一(唯一)で固有の位格(三位)」という時の唯一まことの三位一体の神の「本質」とは異なります。言葉の限界というものを覚えつつ「神のかたち」(創世記1:27)として造られた際の本来の姿を有する人、「神の種」、神のいのちを持っていない死人に対して神のいのちを有する人、「肉」なる人が神からいのちを与えられ「霊」とされなければならない、ということを言いたいために、私たちが一般的に使う意味での「本質」という言葉を用いました。なぜなら、3章のニコデモに対して言われていることと並行して、神の国を見ること、神の国に入ること、神を礼拝することのために、あなたそのもの自体が御霊によって新しく生まれなければならない、全く新しくされなければならないということを、イエス・キリストはここで仰っているのだと思えるからです。もちろん、目に見えてすぐにキリスト者らしくなるというようなことではありません。神のいのち、すなわち霊のいのち、新しい性質の種が与えられているかどうか、ということです。

御子イエス・キリストによって父なる神を知るということ、御霊によって「霊」とされ、イエス・キリストと父なる神を知り、このお方のご性質にあずかる者とされるということ、そうしてはじめて唯一まことの神を礼拝することができるのです。神の愛を知らなければ、私たちは神を愛することはできませんし、そのような愛を持ちえません。神の真実さを知らなければ、神への真実さなど持ちえません。

神を知っていたはずのユダヤ人はどうだったでしょうか。ニコデモもそうでしたが、ユダヤ人だからといってイエス・キリストがどのようなお方なのかを知らない者は、神を礼拝することはできないのです。神と関わることは、一切できないのです。

イエス・キリストによる救いは、異邦人にも及ぶ救いであり、ユダヤ人も異邦人も、イエス・キリストによって、ともに唯一の神を礼拝することができるのです。何と素晴らしいことでしょうか。

ユダヤ人ニコデモに対しても、異邦人サマリヤの女に対しても、そして私たち自身に対しても、イエス・キリストの真実なお取り扱いに、胸が熱くならないでしょうか。


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