キリスト教と精神医学


キリスト教がよく精神医学的な観点から語られることがあり、特にうつ病などに対してキリスト教界もアプローチをしていますが、「キリスト教とは」の説明でもそれが異なるものであることがおわかり頂けるかと思います。

キリスト教がまず取り扱うのは罪の問題であり、それは神さまと切り離された人間の魂の問題です。クリスチャンでない人々の問題は、霊的に死んでいて霊なる神さまとの関係が失われていることであり、まず霊が生かされないとなりません。

精神医学が行うのは、気分の落ち込みなどの症状を改善させることです。

クリスチャンも落ち込むことがありますが、それが霊的な問題なのか、精神医学的な問題なのかを見分けることが重要です。

現在、大うつ病などの精神疾患と言われるものも、脳内の神経細胞から神経細胞へ情報を伝達する神経伝達物質の異常であるという考え方が主流になってきています。なぜ異常が起こるのか、その原因ははっきりとわかってはいません。「うつ」と言ってもうつ状態、気分変調性障害、大うつ病、とあり、また非定型うつ病というものもあります。うつ状態というのは、緊張が続いたり、何かにずっと集中していたり、過度な労働などで疲れたり、日光不足、運動不足、偏食などによっても、誰もが経験することのあるものです。最も重い大うつ病は、その中でも波はありますが、何も考えられず、何にも意欲が持てず、何もできなくなってしまうものです。認知行動療法という考え方の訓練を行う療法も、ある部分では信仰を働かせていく際にキリスト教信仰と重なるところもあり、優れた療法だと思いますが、考えを働かせることも何もできなくなってしまっている大うつ病の方には酷なものであり、通用しません。また、うつ病と双極性障害は同じ気分障害ですが、単極のうつだけの場合と躁(または軽躁)とうつという両極端な状態を繰り返す場合とでは大分異なる対応が必要になります。しかし軽躁状態が顕著ではない場合など、うつ病と双極性障害の診断自体も難しい現状が伺えます。うつ病のみならずですが、あらゆる身体疾患と同様、専門の医師による適切な診断、適切な治療が必要です。

クリスチャンの抑うつについて、霊的なものか精神医学的なものかを見分ける必要があるのは、クリスチャンは霊が生かされているからです。精神機能も、神さまとの関係が正され、霊が生かされてこそ本来の働きをするものです。D・M・ロイドジョンズ博士の「霊的スランプ(Spiritual Depression)」という説教集がありますが、これは、クリスチャンとされたばかりの者から、成長させられているクリスチャンまで、それぞれの段階で陥り易い霊的スランプ状態、あらゆる場合の霊的スランプ状態を聖書のみことばでもって取り扱う素晴らしい書です。霊的な抑うつというのは大抵、キリスト教の教理を理解していないこと、神さまとの関係が第一となっていないこと、不信仰などが原因で起こることは、私自身、身をもって知らされてきています。

キリスト教が精神医学と混同されることによる問題はいくつかありますが、最も問題と思われることは、

・まだ救われていないノンクリスチャンは、魂の救いのために取り扱われることがなくなってしまうこと

・クリスチャンは、精神医学的なうつ病である場合は、信仰がしっかりしていないためだと思わせ追い詰めてしまうことになること、また霊的なスランプ状態の場合は、霊的観点からではなく誤った観点からの取り扱いによって問題を複雑化させてしまうこと

ではないでしょうか。このように書いているのは、私自身も経験があること、またこのようなケースを実際見聞きしてきているからです。キリスト教と精神医学とは別ものですが、決して精神医学を否定するつもりはないばかりか、むしろ別ものだからこそ、その分野の研究を真面目に進める精神医学は必要です。その知識をほとんど有しておらずに、混同させて取り扱おうとすることは危険です。

精神医学的なうつ病において、女性特有のうつ病というものもあります。身体の変動の大きい女性はなりやすいものです。私も、ある時期になると大うつ病に匹敵するほどになることが何度もありました。霊的な抑うつならば、必要なみことばが与えられること、そして信仰を働かせることで回復させられます。大うつ病に匹敵する位の状態になった時は、考えることも何もできずどうにもしようがなくなっていました。人の精神には、脳の情報を整理し、はっきりと識別して理解し、考え判断する機能がありますが、脳の機能障害によって精神機能に著しい支障をきたしている状態であるということならば、そちらの分野の専門家による対応が必要なのです。その場合、身体と精神と霊の区別をよく知っているクリスチャンの精神科医が理想ではありますけれども。

もちろん、身体と精神と霊はつながっているので互いに影響し合うため、身体も精神も霊も大切にしなければならないという意味で切り離すことはできませんが、抑うつがどこからきているものなのかは、その区別を覚えて、まずは慎重に見分けていく必要があります。

人間の肉体は堕落の影響によって、疲れたり、老いて衰え、あらゆる機能が正常に働かなくなってもいきますし、もちろんそうでなくても先天性のものも含め、病気などにかかったりします。精神疾患と言われるものもそうです。その健康維持や治療などのために、神さまは医者を備えてくださっています。 病気のいやし=救いであるとか、救われたら病気にならないというようなものはキリスト教ではありません。イエス・キリストが奇跡を行われた事実がありますが、それは「彼自身の人格と権威を主張し、証拠だてるためになされた、明白な目的をもったしるし」、「約束のメシヤであることを立証するもの」(D・M・ロイドジョンズ『教会の権威』(みくに書店)より)です。現在も、いやしの奇跡などが起こることはもちろんありますが、それが第一ではありませんし、救い主なる主イエス・キリストのご栄光が現されるものでなく奇跡自体が注目されたり、奇跡を行う人物に注目が集まるならば、危険なカルト宗教でしかありません。クリスチャンは医者は必要ないとか、いやしの奇跡をアピールする人々が存在するので、このように書いておきました。

聖書に記されている通り、罪を犯したために病気になったり、何を第一としているのかを問われるためであったり、何かを学ばせられるため、悟らせられるために、病気が生じさせられることもあります。しかしこれは別のテーマになるので、キリスト教と精神医学の区別に焦点を絞ります。

私の魂の救いの際のことも、ここでのテーマに沿って書いておきたいと思います。私は中学2年生頃から生きる意味や目的がわからず、むなしさに襲われ苦しみました。教会というところにも行っていましたが、その答えが全くわからず、むなしさはますます膨らむばかりでした。生きる意味がわからないので、生きる意欲もわかず、何もかもがむなしく思えました。学校にも行かなくなりました。死のうともしました。世の中ではうつ病と言われる状態でした。しかし、世の中でうつ病と言われるものとは違うことを感じてはいました。そのような中で、何とか答えを見出したいと、聖書を開いていて、「空の空。すべては空。」と書かれている伝道者の書が目に留まりました。明確にわかったわけではなかったのでその後も非常に苦悩しましたが、そのようにはっきりと書かれてある聖書には、必ず真実で明確な答えがあること思え、深いところが取り扱われていることを感じ、大きな一つの段階を経させられました。この際、精神医学的なアプローチは全く通用しなかったばかりか、深みにはまっていくだけでした。神さまご自身が、魂の救いのために取り扱ってくださっていたのであり、精神医学の領域ではなかったからです。魂の救いのためには、福音が語られなければなりません。

自分自身のことを振り返っても非常に難しいことを思いつつ、現在のキリスト教界の大部分に見られる安易なあり方では、人間の深刻な問題を取り扱うことはできません。

キリスト教会が何より行わなければならないことは、まずクリスチャン自身が福音を明確に理解し、正しく福音を伝えていくことです。

無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう