心配してくださる神

「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたを心配してくださるからです。」ペテロの手紙第一 5章7節

この書簡全体で苦難の問題を取り扱うペテロは、「...ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行うにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。」(4:19)と記し、「そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めします。」(5:1)と続けています。そして長老たちには神に従い、神の羊の群れを牧すること、心を込めてすること、群れの模範となるようにと、また若い人たちには同じように、長老たちに従いなさいと記しています。いずれにしても、「神に従う」ということです。そして「互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(5:5)と続けています。長老たち、若い人たち、それぞれ互いに謙遜を身につけなさい、と言われています。それぞれが勧告に従う中で、互いに徳を高め合い、謙遜を身に着けなさい、と言われているようです。長老であるがゆえ、また若さゆえ、高ぶるようなことをしてはなりません。究極的には「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」神さまと私たちとの関係において、神さまご自身がそうなさいます。

そうして「ですから」と、ペテロはこの書簡全体のテーマであるこの世でのキリスト者として歩む際の苦難を取り扱うことを続けます。

「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(5:6)と記した後に「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたを心配してくださるからです。」(5:7)と続けています。ペテロが、「神があなたがたを心配してくださるからです。」と記した理由は何でしょうか。

文脈を見ると、謙遜を身に着けるべきこと、神さまの力強い御手の下にへりくだるべきこと、それは「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるから」、「神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるため」である、ということを既にペテロは記し、その直後に「思い煩い」という問題を簡潔に取り扱っています。

謙遜を身に着けるということ、へりくだるということは、キリスト者にとっても非常に大きな課題です。初代教会においても「誇り」、「高ぶり」ということが問題となっていたことが、使徒たちの書簡から見て取れます。

誇り、高ぶり自体は取り除かれなければならない問題ですが、この世において謙遜に生きる際に思い煩いが生じてくるという問題を、ペテロはよく知っていたのだと思います。そしてもちろん、その思い煩いをいっさい神さまにゆだね、神さまが心配してくださることを、非常によく知っていたのだと思います。

この世においてキリスト者として謙遜に歩もうとする際、この世の常識に基づいて様々な困難に遭う場合が多々あります。もっと自分を出さないといけない、もっと欲を出さないと自分を高めることはできない、などとこの世の社会では言われます。そうさせようと圧力をかけられる場合もあります。期待をされているがゆえであり、この世の常識からしたらそれは圧力ではなく好意であったとしても、それはキリスト者としての歩みとは対立します。そのようなこの世での現実の中で思い煩いが起こってくる可能性に対し、ペテロは、「あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい」と言っています。「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられる」こと、「神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださる」ことを知っているのであり、その「神があなたがたのことを心配してくださるからです」とペテロは言います。

[神は、へりくだる者をちょうど良い時に高くしてくださるのだから、現時点で生じてくる思い煩いに振り回されるのでなく、すぐにいっさいを神にゆだねなさい。神はちょうど良い時まで何もしてくださらないのではなく、心配してくださる、気にかけてくださり、配慮してくださるのだから]と。

心配してくださる神さまとの関係こそ、全能の神さまが関心をもって心にかけていてくださることこそ、主イエス・キリストによって神さまと和解させられ、神さまの子どもとされた者にとって最大の励ましとなります。キリスト者の最大の関心事、第一とすることは神さまとの関係であるからです。

そして続けて「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」(5:8~11)と記しています。自分の中で思い煩いをなすがままにさせていたならば、敵である悪魔の術中にはまり込んでしまいます。思い煩いはいっさい神にゆだね、身を慎み、目を覚まして、堅く信仰に立ち、悪魔に立ち向かわなければなりません。

ヤコブもまた「...しかし、神はさらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。...主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」(4:6~10)と言っています。主の御前にへりくだること、そうして神さまに従い、悪魔に立ち向かうことに切り離せない結びつきがあることがわかります。しかしヤコブがそこで生じる可能性のある「思い煩い」について記していないのは、手紙を送った兄弟たちは、「ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。」(4:16)と言われなければならない人々であり、様々な問題について励まし以上に叱責を受けなければならない状態の人々であったからだと思います。書簡の冒頭で試練に対してどう反応すべきか、また励ましの内容も記されていますが、彼らは「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。」(4:9)と言われなければならず、そちらの問題を重点的に取り扱われなければならない現状がありました。

悪魔こそ、いと高き方のようになろうとして落とされた存在です。神さまは高慢を嫌われます。神さまに敵対されたら、退けられたら、悪魔に立ち向かうことなどできません。御前にへりくだる者に、神さまは恵みをお与えくださいます。神さまに従い、神さまの恵みの力によって悪魔に立ち向かわなければなりません。

私自身これまでどれほど失敗し、毎度のように同じ悪魔の手口にはまり込んできたかを情けなく思わせられています。力強い神さまの御前にへりくだり、思い煩いが少しでも生じてきたら心配してくださる神にそのいっさいをおゆだねしなければなりません。そうでなければ身を慎み、目を覚まして、堅く信仰に立って悪魔に立ち向かうことはできません。悪魔も強大な力をもっています。

神さまの御前にへりくだり、神さまに従い、悪魔に立ち向かうこと。

常に忘れることなく心に覚え、実行していく者でありたいと思います。

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