信仰の創始者であり、完成者であるイエス

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」 ヘブル人への手紙 12章2、3節

このみことばは、信仰の勇者たちのことが記され、「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」と言われた後に続くみことばです。

信仰の勇者たちは、主がこの世に来られる前の旧約時代に信仰者として生きた人たちでした。私たちには、さらに優れたお方の模範を見ることができるのです。このお方こそ、信仰の創始者であり完成者です。

このヘブル人への手紙の記者は、最初に御使い礼拝をしていた者たちに、「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました」(1:1~3)と記しています。そして、2章8~10節には「...万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです」と記しています。神の御子イエス・キリストこそ、そのようなお方です。

そして、このイエス・キリストがどのようなお方かを覚えさせながら、戒めや勧めを行っていきます。

ここでは、直前に言及された信仰者たちが、「雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」と言われ、このみことばがあります。そしてそれは、「あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです」と言います。

イエス・キリストがおられなければ、世界も、救いも、信仰もありません。信仰とは「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(11:1)とあります。信仰の人々は、この地上において、いわゆる逆境の中で、約束のものを手に入れることもなく歩み、信仰の人々として死んだのです。彼らは、さらにすぐれた天の故郷にあこがれていました。彼らがはるかに見ていたものとは何でしょうか。必ず約束を果たされる神さまの真実さを確信し、イエス・キリストをはるかに見て喜び、それゆえに地上の物事に執着せず、困難の中でも歩み進むことができたのです。

イエス・キリストご自身はどうでしょうか。主は人として、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍ばれました。そして、神の御座の右に着座されたのです。主のご自分の前に置かれた喜びとは何でしょうか。またそれは、ただご自身のためであったでしょうか。そうではありません。

ピリピ人への手紙には「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」(2:6~11)とあります。

また、エペソ人への手紙には「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです」(5:25~27)とあります。父なる神のご栄光のため、主を信じる私たちをご自身の栄光にあずからせるためです。

主は、罪人たちの不条理な反抗を忍ばれました。私たちの罪の贖いのため、そしてそのことを苦しみに勝る喜びとされていたからです。

その後、聖化について言及されていきます。聖化において、私たちは罪と戦わなければなりませんし、懲らしめを必要としています。罪のないお方、本来苦しみを受ける必要のなかったお方が、罪人たちの反抗を受け、血を流されたのです。私たちの罪のためにです。私たちは、キリストの血によって罪赦され、義と認められた後も、古い性質をひきずり、罪を犯してしまいます。しかし私たちは、弱さを言い訳に、容易に罪を犯していないでしょうか。私たちは、血を流すほどにまで罪と戦い、抵抗したことがあるでしょうか。それほどの罪との戦いを知っているでしょうか。それを知らないなら、懲らしめがあります。ほんとうの子ならば、真実な父はその子を懲らしめられます。しかしそのことを忘れてしまいやすい私たちです。弱って、弱り果て、忍耐も何も投げ捨ててしまっていないでしょうか。

主によって贖われたキリスト者の歩みは、信仰の歩み、聖化の歩みです。それは苦しく困難な歩みです。私たちは旧約時代の信仰によって歩んだ聖徒たちを知っています。そして誰より、信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストを、このお方がなさったこと、自分のためになさってくださったことを知っています。このお方から目を離すなら、すぐに疲れ、元気を失ってしまいます。

主は、なぜ自分がこのような目に遭わなければならないのだ、などとは仰らず、罪人たちの反抗を忍ばれ、はずかしめをものともせずに十字架にかかって死んでくださいました。主は、私たちをきよめることを望まれ、喜ばれます。私たちをきよめ、きよめ続け、最終的には完全にきよくしてくださいます。

主イエス・キリストがどのようなお方なのか、そしてこのお方が何をなさってくださったのか、より深く知ることを求め、目を離すことなく、確かな約束を確かなことと確信し、歩んでいきたいと思います。

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