自分の十字架を負う

「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」」マタイの福音書 16章24節

このみことばの、特に「自分の十字架を負い」については、様々な解釈がなされていますけれども、実際に主イエス・キリストご自身が仰った「自分の十字架を負う」とは、どういうことなのか、文脈を見ながら考えたいと思います。

このマタイの福音書16章の13節から、主イエス・キリストがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたときのことが記されています。イエス・キリストは弟子たちに、人々がご自身のことをだれだと言っているかを尋ねられ、シモン・ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(16:16)という信仰告白をしました。そのペテロに対し、イエス・キリストは、その信仰告白の上に教会を建てられる、ということを仰り、「ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められました。」(16:20)

続くみことばを読んでいくと、「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」」(16:21~23)とあります。そして、「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」」(16:24)と続き、「「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。・・・」」(16:25~26)と続いていきます。

この場面はマルコの福音書8章27~38節、ルカの福音書9章18~27節にも記されています。主イエス・キリストは、受難の時が近づいて弟子たちにそのことを示し始められ、このようにお語りになったのですが、マタイの福音書10章にも、「・・・わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。・・・」(10:37~39)というおことばがあります。これは、十二弟子をイスラエルの家の失われた羊のところに行き、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えるために遣わされた際、彼らに語られた中でのおことばです。

また、ルカの福音書には、イエス・キリストと一緒に歩いていた大勢の群衆に向かって、イエス・キリストが「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。・・・」(ルカ14:26,27)と言われたことが記されています。

いずれの文脈においても、まず、主イエス・キリストと自分との関係について言われていることがわかります。教会を建てる土台となる信仰告白をしたペテロでしたが、主が十字架の苦しみを受け、三日目によみがえらなければならないことを示し始められると、「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(16:23)と主から言われてしまう行動を取りました。十二弟子や群衆は、大切な家族について、主イエス・キリストとの関係よりも優先となるならば、主にふさわしい者ではない、主の弟子になることはできない、と言われました。

そして、自分のいのちをも主イエス・キリストより優先させるならば、それを失うこと、あるいは主の弟子になることはできない、ということが言われています。

ルカの福音書14章の続きには、「・・・あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。・・・」(14:33)ともあります。

どうしても捨てることができない、と、執着しているものがあるならば、主について行くことはできないということです。

それでは、「自分の十字架を負う」とはどのようなことでしょうか。

このように主イエス・キリストが語られたのは、文字通り十字架を背負って歩かれ、その十字架につけられる前でした。しかし、主の人としての生涯は、常に十字架を背負われ、実際に十字架に向かって進まれる生涯でした。そしてそれは、旧約時代から語られていたことでありました。

そのような主イエス・キリストについて行きたいと思うなら、この世で生きていくために、自分の中で自分を保とうとするものを捨て去らなければ、それはできません。

主が自分に何をなさってくださったか、心に留めておかなければなりません。他の人々のためにもなさってくださいました。けれども、ここでは[主イエス・キリストについて行く]ことにおいて、あくまでも主イエス・キリストと自分との関係のことが言われています。

主について行く道は、大変な厳しい道であり、とてもついて行くことなどできないような道であることが語られていますけれども、ただ無理難題が突き付けられているのではありません。主イエス・キリストについて行くには、主が自分のために何をなさってくださったのか、自分のための十字架の道がどのようなものであったのかを知らなければならないことが前提としてあります。

[主が自分のためになさってくださったこと]、その根拠があった上でそのように語られています。ですから、そのことを真に知っている者でなければ、主について行くことはできない、ということが、重要なポイントです。

主イエス・キリストご自身が、「神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられ」たのです(ピリピ2:6,7)。そして罪のないお方が、自分の罪を背負って十字架につけられ、罪の刑罰を受けてくださったのです。死んでくださったのです。いのちを捨ててくださったのです。

救いは無償のものですが、自分が主からどれほどのことをしていただいたのか、何をもってもお返しすることなどできないことをしていただいたことを、常に覚えていなければなりません。そのことを覚えているということが、「自分の十字架を負う」ということになるのではないでしょうか。

つまり、「自分の十字架を負う」とは、[主が自分のため、十字架においてなさってくださったように、自分の最大の犠牲を払う]ことであり、[自分のために、十字架につけられて死んでくださった主のために、自分のいのちを惜しまない]ということ、いずれの文脈からもそう解釈できると思います。

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」(ローマ5:6)

主ご自身が、不敬虔な自分のためにいのちを惜しまれず、「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」(Ⅰペテロ2:24)。ですから、自分のためにそのようになさってくださった主との関係を他の大切な誰よりも、何よりも、第一とし、自分の捨て難いものも自分自身への執着も捨て、自分のいのちも惜しまず捨てる、そのような者とされなければ主イエス・キリストについて行くことはできません。

ですから、日々、もっと主を知る者とされなければなりません。主が、どのような自分に何をしてくださったのかを、より深く知る者とされなければなりません。

そのような者とされることを祈り願いつつ、みことばを聴き、瞑想することを続けていきたいと思います。


追記

ルカの福音書14章28~35節について

主は「さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」」(14:25~27) と言われ、続けて「「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの完成できなかった』と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。土地には肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」(14:28~35) と言われました。

ここで、主はどのようなことを仰っておられるのでしょうか。

主は、「大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。」とあります。主について来る大勢の群衆に向かって、主の弟子になるということはどういうことなのか、主について行くとはどういうことなのか、自分が主の弟子になるにふさわしいかどうかを考えているのか、ということを主は仰られたのでしょう。現在の私たちにも、仰っておられます。二つのたとえ話を見ると、いずれも「まずすわって」ということばがあります。ついて行き始めはしたけれども、本当に最後までついて行くつもりでいるのか、最後までついて行くために必要なことは何であるのかを知り、熟考してついて来ているのか、向こう見ずにではなく、よく考えもせず勢いでついて行くのではなく、何をしようとしているのか、どこへ行こうとしているのか、冷静に自分を吟味し、本当に主の弟子としてずっと最後までついて行く見込みのある者かどうかを、自分自身検討しなければなりません。主の弟子になるには、自分が握り締めているものをすべて捨てなければならない、そのつもりが本当にあるのかどうか、主の弟子になることを軽く考えてはいないか、簡単なことと思ってはいないか、軽い気持ちでついて行っているのではないか、よくよく考えなければなりません。

主の弟子になりたいという思いを持つこと、主について行き、主の弟子という名 ― 牧師、伝道師、執事、教師、献身者、奉仕者、敬虔なクリスチャン― を持つのは結構なことだけれども、その実質がないならば、何の役にも立ちません。主の「召し」をどのように考えているのか、多くの解釈は大分差し引いて、主が語っておられることからするとあまりにも軽く考えているように思われます。「大ぜいの群衆」もそうであったのでしょう。ですから主は、「聞く耳のある人は聞きなさい。」と締めくくっておられます。

主について行こうとする時には、本当に燃える思いでそうするかもしれません。しかし、自分が握り締めていて、絶対に手放すことができないものを手放さなければならなくなったり、自分にとって都合が悪くなったなら、ついて行くことをやめてしまうということがあるでしょう。「財産」というのは、自分にとって価値のあるもののことであり、あるいはそれが、牧師や執事の名であったり、その妻ということであったり、人から素晴らしいキリスト者だ、素晴らしい主の弟子だ、と言われることである場合もあります。そのために真理を語ること、真理であられる主に従っていくことをやめてしまうのです。しかし本当に主について行くなら、主がそうであられたように、また主の真の弟子たちがそうであったように、神を冒瀆する者だと言われたり、会堂から追放されたり、というようなこともあります。自分の保身に走り、「自分の財産全部」を捨てる覚悟もないのに、主の弟子になることはできないのです。そのようなものを握り締めながら、主について行くことはできません。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24) と、主は山上の説教の中で教えておられます。神の国の仕え人でありながら、この世の国の仕え人となることはできません。敵対する国のどちらにも仕えることはできません。この世のもの、この世の思いを捨てられなければ、主の弟子になることはできません。この世に生きる上で必要なものは、父なる神さまがご存知であられ、お与えくださいます。そのことを主は、山上の説教の中で、そのすぐ後に続けて語っておられます。

主の弟子になるということは、現在の "教会" で考えられているような、また語られているような、あるいは物語っているようなこととは全く別世界のことです。厳しく、険しく、狭い道です。主ご自身が語られていること、主ご自身の人としてのご生涯を真剣に考えるならば、私たちはあまりにもふざけすぎていると思わないでしょうか。私自身、そう思わされ、悔い改めさせられています。主からの「召し」について、もっと真剣に考え、私たち人間発信の考えを捨てなければなりません。


無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう