救いにおける神の恵み

「神の福音」は、恵みの福音です。しかし、真っ先に「神の恵み」が登場するのではありません。

救いの意味がよくわからないのは、真っ先に「神の恵み」や「神の愛」が登場してしまうからです。

救いにおける神の恵みとは、どのようなものでしょうか。それは「全く価しない者に与えられる恩顧」です。
ですから、まず自分が恩顧を受けるに全く価しない者であることを知らなければならないのです。

 「神の福音」は、“あなたは愛されています。あなたは神さまにとって高価で尊い存在です。”  ということを真っ先に語ってはいません。

私たち人間について、何が語られているでしょうか。
「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(ローマ人への手紙3章10~18節)

生まれながらの私たち人間は、このような者です。聖なる神の御怒りを招いている、罪深く汚れた者です。
神の律法によって断罪され、死刑という最も重い刑罰を受けなければならない者です。

神さまからの恩顧を受けるべき者ではありません。神さまに目をかけていただいて、愛されて、それが当然のような認識でいるならば、「神の恵み」、「神の愛」は、決してわかりません。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ人への手紙3章23節) と語られています。

もしも、恵みの神、愛の神は受け入れるけれども、罪人である自分に聖なる怒りを燃やしておられる神、罪人である自分を公正にさばかれ、死刑を執行される神を受け入れられないというならば、唯一まことの神を神としてはいないのです。

それこそ、救いが必要な人間の姿です。生まれながらの私たちは、聖書の神さまを神と認めず、唯一まことの神さまを求めず、聖なる神さまに対する恐れがなく、嫌い、憎み、反逆しています。

そのような自分自身を知ったことがあるでしょうか。

そのような自分自身を知り、「神の恵み」を知るのです。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ人への手紙3章23,24節)

私たちには、何の功績もないどころか、私たちが受けるべきは永遠の刑罰、地獄の苦しみでしかありません。
御怒りを覚えられながら、救われる値打ちのない者に救いをお与えくださる、まさに価なしの恵みです。

使徒パウロは、ローマ人への手紙のその直前でこのように記しています。
さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行うことによっは、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(3章19~22節)

律法は、私たちの行なった罪に対する報いとして刑罰を執行します。しかし、恵みは、私たちが行なったことに対する報酬として与えられるものではなく、価なしの無償のものです。

自分自身がそれに全く価しない者であることを知り、「神の恵み」を真に知らなければ、「神の福音」のこの上ない素晴らしさはわからないのです。

※ 聖書引用「聖書 新改訳第三版」(新日本聖書刊行会)より

無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう