教会の交わりについて

Q 教会で交わりが大事だと言われますが、どのように大事なのかがわかりません

 教会でないところでの交わりと何が違うのでしょうか?


現在の "教会" の姿は、本来の「教会」とはまるで別物となっており、教会の交わりも、本来の教会の交わりとなってはいないので、教会でないところでの交わりとの違いがみられませんよね。 "教会" において聖書の教理が丁寧に教えられることがないので、ただ単に大事だと言われるだけで、その一つ一つの意味も、その重要さもわからないのは当然です。

それでは、本来の教会の交わりとはどのようなものでしょうか。

「交わり」は、みことば、聖餐、祈りとともに教会の要素です。

「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒の働き2:42)

使徒たちは、復活の主を文字通り目で見て、復活の主と直接交わりを持った人々です。当時はまだ新約聖書が完成していませんでしたが、彼らは主イエス・キリストご自身から御教えを受けた人々です。

本来の教会の交わりとは、主のみことばに基づく交わりであり、霊的な交わりです。この世にはない、教会以外ではできない交わりです。

そもそも「教会」とは、「召し出された人々の集まり」です。神さまご自身に召し出された者であり、御霊によって全く新しくされた者でなければ、みことばの真理はわかりません。

みことばは霊的な真理のことばであり、御霊によって新しく生まれ、霊的な者とされなければ、みことばの真理を少しでも理解することはできません。霊なる神さまのみことばは、知的理解ではなく、生きた霊的理解でなければ、理解しているとは言えません。知的理解をしている人の方が、キリスト教について、聖書について、よく理解しているように思えることも多々あるでしょう。しかし、理解が非常に浅いと思えるキリスト者も、霊が生かされているので、ほんの少しであっても真理を霊的に理解しているものです。ですので、純粋なみことばの乳を慕い求め、そのみことばに基づく霊的な交わりを求める者とされています。知的理解だけの人と霊的な交わりができないことは、生まれたばかりの赤ん坊であっても、あるいはだからこそ、そのことを言葉で説明できなくとも敏感に感じ取るでしょう。私自身、そうでした。

"教会" によっては、礼拝後に小さなグループに分かれて交わりの時間を持つようにしているところもありますが、そこにはただの形式と無理矢理感が感じられるばかりで、自然に生きた霊的交わりをしていくことを求めている方々には、一体何のためにしているのかと、むなしさを感じるものでしかないでしょう

本来、教会は、ただ神さまの恵みによって救われた者、同じ御救いに与かって、救いの尊さを知る者たちの集まりであり、必然的にその何にも代えられない事柄を分かち合い、その共通の救いを中心に、自分たちを救ってくださった神さまのみことばを喜び、その喜び、またみことばにある通り、苦難や困難も共にしていく、この世にはない深いところで一つとされていなければ不可能な集まりです。

旧約時代に目を向けると、アブラハム、イサク、ヤコブの血筋の者たちが神の民とされたユダヤ民族であり、そのユダヤの人々は血統を重要とし、その証明となる系図を大切にしていました。

血筋というのは、私たち人間には決して切り離せないものです。私たちがいくら縁を切ると言っても、血筋というそのつながりを絶つことはできません。同じ血筋の者でなければ分かり合うことのできない、共通のものを持っています。同じ血筋であれば、似たくなくても根本的に似ているところが多々あり、そこを変えることはできません。奥深いところで似通っており、そうであれば、表われてくるものもよく似たところが見受けられることになります。

そのことは、御霊によって新しく生まれさせられた者たちにまさに言えることであり、その人々は、御霊によってイエス・キリストに結び合わされている人々であり、主イエス・キリストからいのちを分け与えられ、霊的な血筋で結ばれている人々です。

主イエス・キリストご自身が父なる神さまに祈られたように、キリスト者は「あなたが取り出してわたしに下さった人々」(ヨハネの福音書17:6) です。この世に属する者ではなく、神さまに属する者、キリストに属する者です。

ですから、キリスト者の関心はこの世のことではなく、神の国のこと、キリストの王国のことです。主イエス・キリストご自身が、パリサイ人でありユダヤ人の指導者であったニコデモに「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネの福音書3:3) と仰られた通り、御霊によって新しく生まれなければ、何一つとして神の国のものを味わうことはできず、そこに生きた関心を持つこともありません。聖書知識をつけていきたいという意味での知的関心は持つかもしれませんが、神さまご自身、イエス・キリストご自身を知り、ご自身との生きた交わりを求めていくことへの追求心は生まれていません。

ですから、この世に属する者と、神の国に属する者は、当然ながら血の通った交わりはできません。あなたが教会において霊的な交わりを求め、そのような話をしていっても、相手が実際にはこの世に属している者ならば、つまらなそうにされたり、この世のことに話を変えられてしまったり、あるいは聖書に書かれている内容の話であっても、この世の観点からの話でしかなく、霊的観点ではないので噛み合わずちぐはぐになってしまうでしょう。

この世の同好会なども、お互いに共有していることを自然に分かち合え、同じ目的を持って活動し、励まし合い、様々な思いを共にし、それが人々の生き甲斐になるものです。

それでは現在の教会の交わりとは何なのか、キリスト者としての交わりを求めている者として、それがこの世の人々との交わりと違いがなく、みことばに基づいた霊的な交わりができない、でも交わりを持たないと批判される、自分は間違っているのか、自分はおかしいのか、そう思って悩んでおられるかもしれません。

私は御霊によって、確信をもって言いますが、あなたがみことばによる霊的な交わりを持つことを真に求めているならば、この世的な方法でむなしい人集めに走り、人々の魂を取り扱うことをせず、霊的に養うことをしていない現在の教会が間違っているのであり、あなたは間違ってはいません。

以上のことから、本来の教会の交わりの重要性は既におわかりになられているかとも思いますが、私たちは現在、キリストに属するキリスト者とされていますが、この世に生かされています。キリストのいのちに生かされている者でなければ持っていない、この世とは全く違う価値観を持って生きています。キリスト者の歩みは、みことばに基づく歩みです。みことばの真理を理解し、みことばの教えに従っていく歩みです。同じ主イエス・キリストを主とし、同じ主イエス・キリストの父なる神を神として歩む者たちです。ですから、共に交わりを持ち、分かち合うことによって、霊的に強められます。みことばから教えられたことをお互いに教えられ、学ばされ、みことばに基づいてお互いに教え合い、学び合うことができるからです。そうして共に成長させられていくからです。キリスト者であるがゆえの喜びも、困難、苦難も、キリスト者同士なら分かり合うことができ、お互いに励まし合い、慰め合いながら、この世にあって主に従う歩みを続けることができます。

そうして教会が、本来の教会の姿となっているならば、それが必然的に伝道となります。教会が、この世にはない特別なものを持っている人々の集まりであることがこの世の人々の目にも明らかになるならば、そのようなものを求めているこの世の人々は集まって来て、教会の人々の持っている証しや、みことばに基づいた話、みことばそのものを聴きたいと願うでしょう。嘲るために来た人々も、みことばに捉えられることが起こるでしょう。この世の人々の関心事に合わせて、この世にいくらでも溢れているような催しをしたり、いくらでも聞けるような類の話をしても、何の伝道にもなりません。教会の人々が、教会外でもいつもなされているようなくだらない話をしている、それを教会の交わりと呼んでいるのだとしたら、この世の人々も教会には他とは何の違いも見られないとすぐに感じ取ります。何か違ったものを求めてきた人々は、当然教会に失望させられます。

あなたがそのような教会の中で、霊的な交わりができずに苦しんでおられるのだとしたら、私も同じことで苦しんでいます。この霊的悲しみを分かち合えることは、非常な慰めとなります。

このようなことで苦悩している兄弟姉妹を覚え、また教会が本来の姿へ立ち戻らされることを、切に願い、お祈りしています。どうぞ、共にお祈りください。


※ 聖書引用「聖書 新改訳第三版」(新日本聖書刊行会)より 
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