保守的福音主義とは

キリストというと、よくカトリックかプロテスタントかということが言われ、元々あったのがカトリックであり、後からできたのがプロテスタントだと認識されている場合が多くあります。いずれの教会内においても、根本的には同じであると言う人々もいます。

現在カトリックの中でも、プロテスタントの中でも、様々な立場が存在していますので、一概にこうだと言うことはできませんが、聖書から完全に外れ腐敗したローマ・カトリックに対して、聖書に立ち戻り、本来のキリスト教を取り戻すべく宗教改革がマルティン・ルターなどによってなされ、プロテスタントとして存在するようになりました。ローマ・カトリック教会は、いわゆるその組織の維持などのためにあらゆる事柄をつけ加えていき、全く聖書から外れたキリスト教とは言えない根本的に違うものとなり、宗教改革がなされたのです。10月31日は宗教改革記念日とされていますが、1517年10月31日、本来のキリスト教に目を開かされたマルティン・ルターが、強い権力をもったローマ・カトリックという組織に大々的に立ち向かっていったのです。ですから、「改革」と呼ばれていますが、「本来のところに戻る」という方が正しいのです。プロテスタントは、教団や教会などがその立場に立っていることを表明する言葉です。

「福音主義」と「自由主義」についても、世界の歴史の中で様々な動きがあり、非常に複雑ではありますが、

「福音主義」は、おもにマルティン・ルターやジャン・カルヴァンによって説かれた聖書の教えに基づく、旧新両約聖書のみを規準とする立場であり、『聖書の権威』、『聖書信仰』を表明しています。「福音派」という言葉もあり、立場としては「福音主義」と同様であるとしています。福音主義に立っていることを表明する様々な教派の団体や教会が加盟している日本福音同盟という機関は、自由主義(リベラリズム)に対して福音主義、エキュメニカル派(聖書教理を基盤としていないリベラル神学による様々な教派を超えた教会一致運動を促進する派)に対して福音派としています。

「自由主義」は、プロテスタント自由主義と掲げていますが、一言で言えば、信仰と生活の規準を「聖書のみ」に置いてはいない立場です。細かいところなど気にせず、固いことを言わず、柔軟に現代の世の中にも通用する考え方でもっていきましょう、というようなあり方です。日本において最も規模が大きいのですが、現在の日本の自由主義は文字通り人間的に自由なあり方をしています。あるいは聖書は「自由」を語っているという人々もいますが、聖書が語る自由というのは、罪と悪魔の奴隷状態の束縛から、また私たちを罪に定めてその刑罰である死を要求する律法、私たちの罪深さゆえに良いものであるにも関わらず罪を助長することになってしまう律法の下から解放されて自由にされ、イエス・キリストと結び合わされて造り主であられる神が私たちを造られた本来の目的に生きることができる、つまり神に従って生きることができるようにされるということです。その自由思想というのは人間が思うところの自由であり、何でもありの無律法主義であり、キリスト教とは言えないものです。ただ自由主義の教団に属している教会でも、全てがそうであるとは限りません。自由主義だけでなく、〇〇主義の教団のどの教会に所属しているから、この人はどうだと言うようなことはしてはなりません。

私が問題だと思わされているのは、「福音主義」を掲げている場合のそのあり方です。「福音主義」、あるいは「福音派」も本来のキリスト教から大分外れてしまっています。私自身、母のお腹の中にいる時から30年以上その中にいたわけですが、福音派のどの教会においても、福音も聖書教理もほとんど理解されていません。なぜなら、正しく伝えられていないから、教えられていないからです。それゆえ、実際的に聖書から大きく外れたあり方となっています。「聖書の権威」、「聖書信仰」は、教師たちが掲げているだけでは何の意味もありません。

「聖書のみ」は掲げるだけではなく、聖書の権威に服従して生きたキリスト者たちの実際面を受け継いでいかなければならないというのが、「保守的福音主義」=「本来の福音主義」【子羊ミッション】の決意としているところです。

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