律法の重要な働き

私たち人間は、律法の行ないによって救われることはできません。律法は私たちを救うものではありません。

それでは、律法は私たちと全く何の関係もないのでしょうか。そんなはずはありません。

神の律法の重要な働きを知っているでしょうか。

神の律法の働きを知らずに、私たちは神さまに対する罪を知ることはできません。

神の律法の主要な働きは、罪を定義することだからです。

人間の社会において、私たちは何を基準に有罪か無罪かの判決が下るのかと言えば、その基準は法律です。
私たちの社会には必ず法律や条例、規則があり、それらに反することをした場合、有罪という判決が下され、あるいはルール違反ということで、処罰、罰則が適用されることになります。

神の律法は、聖なる神の基準で罪がどのようなものであるのかを明らかにし、私たち人間に罪を自覚させます。
人間はその律法に違反しており、律法によって罪の宣告がなされています。

主イエス・キリストご自身が、律法の中でたいせつな戒めについて、「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイの福音書22章37~40節)と仰っておられます。
そして「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」(ヨハネの手紙第一 5章3節)

生まれながらの人間にとって、神の命令を守ることは非常に重荷です。神の命令を守って生きるなど、窮屈で縛られ、自由がなく、何の楽しみもない生き方だと本能的にはねつけます。神を愛していないからです。
ですから、隣人を自分自身のように愛することもできません。自己中心で、自分にとっての益、自分にとっての楽しみ、喜び、自己満足を求めている人間は、自分自身のように隣人のことを愛することなどできません。むしろ、隣人をねたみ、嫌い、対抗心を燃やし、あるいはそのような思いはなくても自分のために利用したり、お互いにそうして自分を保って生きていこうとするのが人間です。

神の律法は、そのような私たち人間を断罪しています。
神の聖なる律法による断罪を、身をもって知ったことがあるでしょうか。

そして、神の律法の重要な働きは、私たちを罪に定めた上で、「私たちをキリストへ導くための私たちの養育係」となる (ガラテヤ人への手紙3章24節)ことです。 

律法によって、私たちは罪を意識させられます。とても律法を守ることはできず、律法の行ないによって義と認められることはできないこと、罪の宣告がなされていることを知らされます。
そうすると私たちは、自分自身には何の望みもなく「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ人への手紙7章24節)と叫びます。
そして、神の律法を完璧に守り通されたイエス・キリストにのみ救いがある、イエス・キリストにのみ望みがあるのだと、救い主なる主イエス・キリストに全幅の信頼を寄せていきます。

律法は、そのようにして私たちをキリストへ導くための養育係となります。


神の律法はこのような重要な働きをします。

それゆえに、律法を私たちの救いにおいて全く関係のないものであるとするならば、【救いとは何か】ということが、わかるはずはないのです。


※ 聖書引用「聖書 新改訳第三版」(新日本聖書刊行会)より

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