冊子
冊子「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」(富岡愛美 著)
現在、学び会等でご希望の方に配布しています。
この冊子は、[聖書 新改訳2017(新日本聖書刊行会)]ではなく、[聖書 新改訳第三版(新日本聖書刊行会)]を使用していますが、その大きな理由は「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイの福音書9章12,13節) の訳が、やはり第三版の方が適切だと思われるからです。
新日本聖書刊行会のホームページに[新改訳2017]で「エレオス」(あわれみ)を「真実の愛」と訳出した説明、訳注には"あるいは「あわれみ」"と記した説明があります。新約聖書における旧約聖書からの引用というのは、微妙にことばの違いがある場合がしばしばありますが、そこで言われていることの本質は同様です。ホセア書6章6節には「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」([新改訳2017]) とあります。この6章の文脈で重要なことは『主に立ち返ること』、『主を知ること』、『神を知ること』です。
そして、このマタイの福音書9章12,13節で主イエス・キリストが言われていることは、まさにそのことであるはずです。神さまに対する罪の自覚、悔い改め、罪をお赦しくださる神さまの愛、あわれみを知り、神さまご自身を知る者とされます。「あわれみ」には、悲惨な状態から助け出したいという行動があり、新約聖書のこの時点ではまさに御子イエス・キリストがこの地上に遣わされ、イエス・キリストが罪人を招かれる、その父なる神さま、御子なる神さまが救いという行動を起こされていました。
そうして罪人の自分に主がなさってくださった神さまの愛、あわれみの行動を知らなければ、神さまに対する愛も、人に対する愛、あわれみも到底持ちえません。あわれみを受ける必要がないという人々にはあわれみを知ることもできません。主が【山上の説教】の中で「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」(マタイの福音書5章7節 [新改訳2017])と言われていることともつながっています。
外面的に神を敬う者のようであったパリサイ人たち、主イエス・キリストが取税人や罪人と交わることに批判的な態度を示したパリサイ人たちは、あわれみを知らず、すなわち本当は主を知らず、神を知らなかったのです。
それがここの釈義であることから、ここの「エレオス」は、[新改訳第三版]にある通り「あわれみ」が適切だと思われます。
キリスト教の福音「良い知らせ」とは何でしょうか。
「良い知らせ」は、決して良くない状態、状況の中にある者たちに告げられるものです。
もし私たちに何の問題もなく、全ての面で健康ならば、良い知らせは必要ありませんし、とりわけ良い知らせを良い知らせとも思わないものです。
しかし、深刻な病気にかかっていることがわかったときに、その病気に対する根本的な治療法があり、完治できるというなら、それは大変良い知らせとなります。
しかしもし、深刻な病気を抱えていても、そのような自覚がないならば、病から救われる必要を覚えることもありません。
救い主なる主イエス・キリストは、取税人や罪人と食事をすることに批判的な態度を示したユダヤ人の宗教指導者であったパリサイ人たちに言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイの福音書九・一二、一三)
イエス・キリストがこの地上で人としての生涯を送っておられた際、最もこのお方に憎しみを抱き、敵対心を燃やしていたのは、神の民とされ、救い主を待望していたユダヤの民の宗教指導者であったパリサイ人や律法学者たちでした。彼らは宗教的エリートで、非常に敬虔できよい生活をしていると、人々から尊敬される存在でした。
パリサイ人は、特に他の国々の支配下に置かれていた状況の中で、神の民として与えられていた律法を適用し、守っていくことに熱心でありました。律法を実生活に適用していくに当たって細かい具体的な規定が定められ、それが伝承されていき、その言い伝えを厳格に守っていました。
そのようなパリサイ人や律法学者の中の大勢の者が、特にイエス・キリストを激しく憎み、常に陥れようと企み、殺害する機会を狙っていた理由は何でしょうか。自分たちよりも人々の注目を集め、いつも周りは人だかりとなっていたイエス・キリストの存在に嫉妬したのでしょうか。そのような面もありました。しかし、単なる妬みの感情だけではなく、そこにはもっと根深いものがあったでしょう。
厳格に規律を守り行なう彼らは、人の目から見たら最高峰の生き方をしていた人々でした。神を敬い、律法を守り、義の生活に徹する模範的な人々と見られていました。律法よりもさらに厳しいような言い伝えを順守していました。そうして自分たち自身を義としていたのです。ですから、彼らは神がそのご愛によって遣わされた救い主を必要としてはいなかったのです。ご自身が神から遣わされた御子であられること、そして救われるためにご自身を信じるよう彼らに示されましたが、彼らはそのようなイエス・キリストを、神を冒瀆する者であると、ますます殺そうとしていったのです。
そのような彼らに、イエス・キリストはある時「......偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」(マタイの福音書一五・七―九)と言われました。
彼らは、口先では神を敬い、外面的には立派な生活をしていた人々でした。しかし、彼らの律法解釈には根本的な誤りがありました。神の律法というのは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイの福音書二二・三七、三九)というものです。律法を守ること、律法に従うこと、その根拠は第一に神を愛すること、そして愛するお方が命じられていることをその通りに行ない、そのお方のご栄光を現していく、というものです。
父なる神を愛しておられる御子なる神イエス・キリストは、人として本当の意味で神の律法を守り、真の意味で神に従われていたのです。そこで、自分たちを正しいとしていた彼ら(宗教指導者たち)は、そのイエス・キリストの姿によって、自分たちが決して正しくはないこと、それどころか自分たちに罪を突きつけられているように思えたのです。自分たちの正しさ、敬虔さ、きよさを誇りとして生きてきた彼らの目に映ったイエス・キリストの姿は、自分たちを断罪し、その内側は罪汚れにまみれ、全てが偽善でしかないことを暴露したのです。彼らがもし神を愛するがゆえに律法に従っていたのであれば、父なる神を愛し、神に従うイエス・キリストを愛したはずですが、反対に憎しみをあらわにしていきました。
自分たちの義を誇り、自尊心に満ちていた彼らは、その自尊心を操る悪魔によってイエス・キリストを早く抹殺したいというほどに、激しく憎んだのです。悪魔というのは、高慢になって心の中で「......いと高き方のようになろう。」と言い、天から落とされた堕落した天使(イザヤ書一四・一二―一五)です。そして猛烈に神を憎み、神による最高の被造物である人を堕落へと至らせるよう誘惑して成功し、その支配下に置いて操っている存在なのです。
ここで、イエス・キリストによる最も有名なたとえの一つである【パリサイ人と取税人のたとえ】を見たいと思います。
「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカの福音書一八・九―一四)
「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」というのは、神の国の法則であり、聖書の中には何度もこの教えが出てきます。
私たちも自分を高くしている人、尊大で人を見下している人に好感を持つことはできません。当時のパリサイ人は、いわゆるその典型でした。くり返しになりますが、パリサイ人は外面的には敬虔で素晴らしい人々と見られ、尊敬されていました。しかし主イエス・キリストは「心の中でこんな祈りをした」と言われています。
それでは、パリサイ人たちが蔑んでいたこの当時の取税人というのはどのような人々であったのでしょうか。
当時、ローマ帝国の支配下にあった属州の人々は、租税や関税などの税金をローマ帝国に納めていました。それらの税金は、ローマ政府が直接徴収するのではなく、地方の請負人などによって徴収されていました。ローマ政府側としては、取税人たちによって確実に税金を徴収できればそれでよく、徴税は取税人に任されていました。そのような中で取税人は、いくらでも上乗せして取り立てを行なえる立場にあり、実際にそうして私腹を肥やしていたため、同胞から嫌われていました。
神の民として神の律法を持っていたユダヤ人にとっては、より深い問題がありました。[他民族である異邦人のならわしをまねてはならない]という戒めがあり(レビ記一八・一―五)、異邦人と関わりを持ってはならないわけではないのですが、多く接触したり深い関係を持つことで、異邦人のならわしが入り込み偶像礼拝へと至るということは、旧約時代にもしばしば見られる例でした。ですから、ローマ帝国に納める税の徴収を行なっていた取税人は、異邦人と密接な関わりを持っており、汚れた存在と見られていました。また、「同胞からは利息を取ってはならない」とある(申命記二三・一九、二〇)にも関わらず、律法に反して堂々とそのようなことを行なっていた彼らは、罪人の代名詞のような存在だったのです。
さて、このたとえは「パリサイ人たちに」ではなく、「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対して」話されたと書かれてあります。そのような人々にたとえとして話されたことですが、実際に見られている現実の中から典型例として話された事柄でした。
義であるという自分自身への自己信頼に満ち、他の人々を見下していたパリサイ人は、胸を張って宮に立ち、心の中で〝自分は他の人々のような罪人ではなく、特に取税人のような汚れた者でなくて感謝します。自分はこのようにきよい者です。欠かすことなく神へのささげものもしています〟と祈りました。一方、取税人は、宮に近づくこともできず、目を天に向けることもできず、人がどうで自分はこうだというのではなく、ただ神の御前に自分が罪人であることを悲しみ、あわれみを求めました。胸をたたくというのは、非常な悲しみと悔い改めを表す行為でした。〝自分はこのような立派な者です。このようなことをしてきましたし、今もしています〟などと、神に対し胸を張って言えることなど何一つなく、どうしようもない自分に対し胸が張り裂けんばかりに悲しみ、ただただ神のあわれみを求めたのです。そしてこの取税人が義と認められた、と主は語っておられます。
「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」は、何よりこの決定 的なところ
―罪に定められたままその刑罰を受けて地獄に落とされるか、義と認められて天の御国に入れられるか―で適用されます。
自分はあの人のようではない、あのような人間でなくてよかった、あのような者と違って自分には良識があり、道徳性がある、周りの人たちのためにこんなに役に立つことをしている人間だ、と私たちは心の奥で言います。口に出して言うこともあります。
ことに教会内にこそ、パリサイ人に似たような人々が存在しています。毎週の礼拝を守っている。祈祷会にもしっかりと出席している。奉仕も伝道活動もよく行なっている。毎日聖書を読み、祈り、信仰生活を守っている。そのような自分を誇り、自分の信仰を誇っている人々がいます。或いはそれらの一つ一つを欠かしていないとは決して言えないけれども、何か問題が起こっても《教会》というところから離れずにしっかりとつながっていることで、自分の信仰の立派さに満足している人々がいます。そして、そうではない人を見下して生きている人々がいます。
では、神に対してはどうでしょうか。神との関係はどうでしょうか。神を愛し、神の命令に従っていると言えるでしょうか。
生まれながらに人は、神を愛するどころか、自分の造り主であられる唯一まことの神を認めません。神を憎み、神に背を向け、反逆し、「神に従う」という一言に強い拒否反応を示します。悪魔の誘惑に耳を貸したエバ、そして神よりも妻の声に耳を貸した人類の代表者であったアダムが、エデンの園において食べてはならないと神から言われていた木の実を食べ、唯一のおきてに反し、人類に罪が入ったため、人は生まれながらに神との関係が切り離され、罪と悪の支配の下にいるからです。隣人を自分自身のように愛することなど、そもそもできません。私たちはみな、偏り誤った自分への愛により、自分に対して神経過敏になっているので、些細なことでも嫌な思いをすると、相手を憎む心が湧いてきてしまいます。
生まれながらに罪人である人間は、罪と悪の奴隷状態とされ、神に対して何が罪で何が義なのかがわかりません。ユダヤ人であっても、パリサイ人であっても、クリスチャンホームに生まれ育った者であっても、すべての人が神の御前では同じ罪人であり、罪や悪に妥協することを決してなさらず、徹底的に嫌われる聖なる神の御怒りの下にあるのです。
しかし病人であっても、罪人であっても、その自覚がないならば、救いを必要としません。〝自分は罪深くてどうしようもない者です〟と言いながら、ただ口先だけで、心刺され悔い改めることがないならば、そして自分の信仰や信仰生活、教会生活を拠り所とし、健全さを保っているのだとしたら、そのような健康な人々はイエス・キリストを必要とはしないのです。イエス・キリストを信じているという自分自身を信じている人々は、イエス・キリストを必要としてはおらず、信じ、敬い、愛していると思い込んでいながら、退けているのです。
神の律法は、人がその行ないによっては決して「正しい」、「義である」という判決が下されることはないことを突きつけます。
生きていくにあたって、平和や倫理道徳、生きる力をつける等々の教育が必要であり、キリスト教の教えはその中の一つともされます。確かに、マタイの福音書五章から七章の【山上の説教】などの教えを実行することができるならば、人間のあらゆる問題は起こりえないでしょう。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということを本当の意味で実行できるなら、周りの人々、組織同士、国同士などの代々に渡ってくり広げられている問題も、見られることはないでしょう。
しかしそのような美しいことばを掲げはしても、それを実行することができないのが、罪人として生まれてくる私たち全ての人間の現実です。
「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしは あなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、
左の頬も向けなさい......」(マタイの福音書五・三八、三九)というようなことが、できるでしょうか。「目には目。歯には歯。......」(出エジプト記二一・二四他)は、裁判官が行なうべき公正なさばき、復讐の限度などについて命じられていた事柄ですが、自分が害を被ったことには敏感で、害を与えたことには鈍感な私たちは、個人的に〝目には目と歯。歯には歯と手と足〟など、倍以上にして返すということさえしていくものです。そのような私たちが、不当に危害を加えてくるような者に、自我、自尊心を全く無にし、復讐心、報復心を少しとして抱くことなく、そのようにできるでしょうか。
とてもできるはずがありません。私たちはむしろ、そう認めさせられます。自分の行ないによって、神に義と認められることはないことをです。神の基準を突きつけられたら、自分の正しさを主張することなどできないことをです。自分ではどうすることもできません。たとえしたいと思ってもできません。どうしたらよいのでしょうか。
そう魂が叫ぶならば、あなたは幸いです。神の御子イエス・キリストが、人として完璧にこれらのことを代わりに行なってくださったのです。人として罪を犯すことなく、完全な義を行なわれたのです。そして身代わりに十字架にかかり、罪のさばき、聖なる神の御怒りを受けられ、死んでくださいました。完璧に父なる神に従われ、罪の処罰もなだめもなされて満足されたゆえに、神はこのキリストを死者の中からよみがえらせられました。
神は、キリストに行なわれた罪の刑罰を、キリストにのみ信頼する者に行なわれたものとして、またキリストの義を、キリストにのみ信頼する者の義とみなしてくださるのです。キリストのきよい血が注ぎ出され、罪の赦しを得させてくださり、さらにキリストが行なわれた義を、この主イエス・キリストを信じる者にまとわせ、義とみなしてくださるのです。そうして、敵対関係にあった神と和解させられ、親しい父と子としての関係を持つことができるのです。
否定し、憎み、本来の生きる目的、造られた目的などお構いなしに、身勝手極まりない人生を突き進む私たちのために、神はひとり子であられるご自身の御子イエス・キリストを、この世に遣わしてくださったのです。そのような者の身代わりとして、ひとり子を死に至らせなさったのです。キリストは、ののしられ、苦しめられ、不当な扱いを受けられながら、父なる神に不平不満をつぶやくこともされず、十字架の死にまでも従われたのです。
「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。......」(Ⅰペテロの手紙二・二二―二四)
自分がどのような者で、そのような自分に対して神が実際に何をなさってくださったのかを知り、その御恵み、あわれみ、ご愛を知るのです。そして神のいのちに与かって、私たちは、到底不可能であった教えを実行する者とされていくのです。本質的に変えられなければなりません。キリストにある新しいいのちをいただかなければなりません。そのためにはまず、自分自身には何もできることはないことを、神に対して罪を犯すことしかできないことを、知らされる必要があります。
このように、まず人が最も願っていないことを突きつけるのが、キリスト教です。それこそが、人類の根本的な問題だからです。その根本的な問題を取り扱うことができるからこそ、そこからの救いの道があるからこそ、時代が移り変わっても世界のベストセラーである聖書―神のことば―は、重点的に罪の問題を人々に語るのです。そうでなければ、赦されるはずのない罪人の私たちが、その最終的な刑罰である永遠の死―神との完全な断絶―の苦しみへ向かって進んでいようとどうなろうと放っておかれたでしょう。
キリスト教の福音は、対症療法で痛みや苦しみを何となく和らげ、表面的な慰めやいやしを与えるようなものではなく、人のあらゆる問題の根本的な原因である罪を取り扱うのです。自尊心を助長させ、言わば〝イエス・キリストはあなたを愛しておられます。あなたのためにいのちを捨ててくださったほどです。このお方を信じて、自分に自信を持って下さい。〟というような招きを行ない、〝もう大丈夫です。あなたは信じて救われました。永遠のいのちが与えられました。〟などと言って死に至らせることほど恐ろしいことはありません。
まず必要なのは、自分が救われなければならない罪人であるという真実を知ることです。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイの福音書九・一二、一三)
主は「罪人」を招いてくださいます。「罪人」にとっては、神がご自身の御子イエス・キリストにおいてなさってくださった御救いこそ、この上ない「良い知らせ」なのです。
※聖書「新改訳第三版」使用